年相応という言葉が大っ嫌いという話

さて、あらかじめ断っておくけれども(といってもこれは今日のポストに限った話ではないけれど)、これから書くことは、あくまでわたし個人の好き嫌いや、行動指針、その背景にある論理であり、みんなもこうしたらいいよとか、これが正義ですよねといった、一般論のつもりはない。

わたしと違う考えの人を否定するつもりはないし、説得するつもりもない。逆に言えば同様に他人から否定されるつもりもない。これはあくまで自分がどのように生きるかという選択の話にすぎないので、正しいとか間違っているとか、他人と意見をすり合わせる必要はないと思うからだ。

と、ながなが前置きをした上で本題に入る。

小泉今日子さんはアンチエイジングが嫌いらしい

先日、女性誌の対談で、社会学者の上野千鶴子さんと、タレントの小泉今日子さんが「アンチエイジング」という言葉が大嫌いだと言って、大いに話題になっていた。

インタビュー本体は読んでいないのだが、昨今過熱気味の「不自然に若さを追い求める」という風潮を是としないということらしい。

わたしも、過度な、いわゆる整形的「不自然さ」という観点からいうと賛成する。たるみを隠すためにほおが妙な形に膨らんでいたり、シワがでないようにと、笑っても目やほお、額が動かなくなっているような顔を見ても、あまり魅力的とは思えない。

それよりは、シワがあっても、ふつうのおばさん、おばあさんでいいや。と思う。

アンチという概念

また、言葉の使い方の問題として、「アンチ」という概念も好きではない。

自己啓発的アファメーションの作り方などでよく言われているが、何かに対して「否定」しても、結局、その否定しているものにフォーカスをあてていることになる。

アンチといいつつ「老化」にフォーカスしているのだから、逆効果なのかもしれない。

ただ「アンチエイジング」という言葉が好きではないからといって、べつに「老化」を肯定しているというわけでもない。

肯定してもしていなくても、かってに老けていくものだから「まあ、しょうがないよな」ということにしているだけだ。できることならば若々しいほうがいいに決まっていると思う。

年相応という言葉が大っ嫌い

というわけで、わたしは年相応という言葉が大っ嫌いだ。

そもそも「年相応」というのはどういう意味か考えたことがあるだろうか。

同じ年の周りの人と同じくらい(老けている)ということだ。

つまり「みんなと同じ」ということ。

もともと「みんなと同じになれ」といわれるのは大嫌いだ。わざわざ老けたくもない。それなのに、みなが老けてきたのだから、同じくらい老けろといわれても困る。断固としてごめんこうむりたい。

老化が不可避だとしても、肉体のコンディションには個体差がある。ケアの仕方でも老化のスピードは変わるはずだ。なのに、なぜ同じ頃に生まれたというただそれだけで、その人たちと同じスピードで老けなくてはならないのか? そんな理由はどこにもない。

若さの秘訣

過酷な労働にさらされると早く老ける。どんなものでも乱暴に扱えば早く磨耗するわけで、逆に言えば、丁寧に扱えば長持ちする。

自分のかけがえのない肉体を大事に使って、きちんと栄養や休息も取る。長時間の直射日光を避け、心身ともに健康に気をくばる。

そうすれば、長く若くいられる。

「若さの秘訣」などというと、何か特別なことがあるのでは、と思うのかもしれないけれど、本当はみんな知っていることが基本なのだ。

ざっくりいうと、自分の体を大事に使うこと。

でも、それってすごくいいことじゃない? 反対される要素が見当たらないように思うのだけれど。

年齢に応じた深み

年齢相応というときに、外面ではなく、内面の成熟という概念に言及されることも多い。

わたしも、年のわりに幼稚に見えるような言動を好ましいとは思わない(自戒の意味をこめつつ)。

でも、見るからに「ザ・おばちゃん」という風貌で傍若無人な人もいる。見た目が老けたら自動的に、それにあわせて内面も成熟するわけではない。

つまり、内面の成熟と見た目の若さは関係なくないか? それはそれ、これはこれ、だろう。

小泉今日子さんは「年をとるって楽しいよ」と。年輪を経ることで得られる経験や成熟について語っていたようだが

彼女自身はちゃんと長年肉体のケアもして、外面と内面と両方磨いてきたから今の姿があるのだろうと思う。

結局

いかに美魔女が若く見えて「20代の娘と姉妹に見えると評判」などと言ってみても、さすがに40代は20代には見えないわ。それはお世辞。あるいはちゃんと見ずにざっくりした印象で語っている。

それでも。ぱっと見だけでも、たとえ目の錯覚でも「きれい」と言われたらうれしいだろうし、それを外野が文句を言う筋合いはないじゃない。悔しいから認めたくないという人は見なければいい。

どうあがいても、死に近づくにつれ、少しずつ衰えていく。それを、自分の中でどう折り合いをつけていくか。現状を受け入れつつ、ときに何かを諦めたりしながら、いかに生きて行くかということが問われている。

自分なりの落とし所をみつけていく。

自分の外に正解はない。

若さを礼賛する風潮

「若さだけを崇拝する風潮は如何なものか」といくら喧伝しても、若さを求めること自体はクレオパトラの時代から変わらない、人の本能のようなものではないのか。根本的になくなることはない気がする。

また、今の日本の平均年齢は40以上だ。その上、これからさらに高齢化に拍車がかかるから、若さは相対的に貴重な資源となる。ますます礼賛されるようになるかもしれない。

しかし、大多数の中高年にとって、若さだけを至高とする一元的な価値観はそぐわない。大多数が「若いってずるい」みたいに羨ましそうに、不満げに生きていては、若者にとっても未来に希望がもてない社会になってしまう。

なので、これからは、ある程度多様性を持った「年をとるのも、悪くない」的な価値観も作られていくのじゃないか。(がんばれキョンキョン)。

と、タレントに丸投げしている場合じゃなくて、この際自分も当事者なのかもしれないけれども。

現時点で、わたしにとって、年上の女性で「こんな風になりたい」というような人が、全然いないんだよね。

かといって、自分自身が若い世代のロールモデルになろうというほどのおこがましい根性はないから、

せめて「まあ、(真似しようとは思わないけど)あの人楽しそうでいいよね」くらいには見える人生にしたいと強く思う今日この頃であったりはするのだった。