つらいことを何度も思い出さないという決断をした話

先日、昔の友人に会った。

昔のことも今のことも、本音でたくさん語れてとても楽しかった。

しかし、友人が小学生のときに一緒に遊んだ楽しい思い出を語ってくれた時、わたしはそれを思い出せなかった。そのことに、ひそかにかるい衝撃を受けていた。

つらかったことは、かなり鮮明に覚えているのに、楽しいことのほうは覚えていないなんて。

なんでつらいことばかり覚えているのかといえば、それは繰り返し思い出しているからだ

しかし、それはわたしがネガティブだからというばかりではなく、人間の脳の働きとしても、失敗の方を覚えやすくできているらしい。そのほうが生存確率を上げるのに役立つからだそうだ。

たしかに、原始時代であれば、ひとつの失敗が死に直結するかもしれない。からくも死を逃れたなら、二度と同じ失敗を繰り返さないように深く心に刻んでおかなくてはならない。

しかし、現代社会においては、そうした脳の機構は、もはやあまり有用ではない。嫌なことを何度も思い返しても鬱になるだけだ。

そろそろ、その無用な機能を意識的に無効化してもいい頃合いではないか。

自分の世界観を見直したい

過去のつらい思い出は、「こういうときはこうすべきだった」というような経験則として、無意識に世界観を形成していく。

しかし、そのような過去の経験による「教訓」は今後の人生にもあてはあまるだろうか。今後は役に立たないのであれば、そのような経験則は、どんどんアップデートして削除したい。

無益なマイルールがどのようにして設定されたのか、そもそもの発生点を検証する際に、過去のつらい思い出が想起されるのはしかたがない。

しかし、多分つらい思い出はそれ以上の役にはたたない。であれば、一度検証したあとは、もはや何度も思い出す必要はないなと思った。

洗脳するのは親だけではない

わたしに、役に立たない変なルールを一番たくさんおしつけたのは、親だ。

けれど、かりに変な親ではなくても、多かれ少なかれ、なにかしらの刷り込みは、こどもに対してせざるをえない。親以外にも、先生や友達やテレビやその他のメディアなど、人になんらかの思想を植え付けるものはたくさんある。

本質的に、人はだれでも、無知で無垢な幼児から、なにかしらの情報や価値観を刷り込まれて大人になるしかない。その過程において、まともな考えを多くインストールされた人はラッキーだし、そうでない人はアンラッキーだ。

たまたまアンラッキーの方に入ってしまったとして、「ちくしょう!なぜ俺だけがこんな目に!!」と呪詛をまきちらすことに、今という時を費やす人生。

そんな風に生きていきたいだろうか。

自分は、そろそろ「もういいや」と思った。もうやりきったかなという感じ。

これは、今絶賛毒吐き中の人に対して、無意味だからやめろという意味ではない。(わたし自身に呪詛が直接降りかからない限りにおいては)

しかし、自分にとっても、親を恨む時間が必要だったのか?といわれると正直よくわからない。べつになくてもよかったなとは思う。むりやり「あの時間は意味があった」みたいに言いたいとは思わない。

親の支配からの卒業

今まで「親」というのは、自分にとって特別の存在だった。

「特別」というのは、自分に対して、従わせる権利を持つ存在、いうことを聞かなくてはいけない存在、というよう意味合いだ。

例えるなら君主。どのような暴君であろうと、君主ならば、いうことを聞かねばならない。あるいは荒れ狂う神。

でも。

親も、わたし自身やほかの人と同じ、ただの人間だということにしよう。彼らはわたしの神ではない。そう思っていいと自分に許可を出した。

自分にとっての絶対神と思えばこそ、親の理不尽や愚かさが許せなかったが、ただの人にすぎないのならば、あるいはしかたがないと思うこともできるかもしれない。

彼らの言うことは絶対ではない。意見を傾聴はしても、いうことを聞くか聞かないかはこちらが決める。

「もともとたいしていいつけを守っていなかったじゃないか」と、表面的には見えたとしても「いうことを聞かなくてはいけない立場であるのにもかかわらず、大罪を犯して逆らっている」というのと、「ひとつの意見を検討して取り入れなかった」というのは、内面的に大きく違う。

親の影響力が縮小したあと

今後の人生においても「奇妙なルール」を押しつけてくる存在は、親以外にもたくさんあらわれるだろう。時代の流れや、社会の風潮、なんなら服装やメイクの流行すらも、そうだ。

今年かっこよかった服は数年後にはださいと言われるかもしれない。今年の流行色なんて、誰かがそう決めて、みんながそうだということにしたからそうなっているにすぎない。そういう情報にどの程度左右されて今を生きるのか、それも今の自分の選択だ。

過去の親とのトラウマも、そんな、数多くの参照情報のひとつというくらいにまでに縮小した。たとえば「今年の流行色」くらいの情報と同程度の重要度が妥当だろうか。

べつに、ピンクがはやろうが、オレンジがはやろうが、暗い色はスピリチャル的にマイナスと言われようが、黒が好きなら黒を着る。気が変わって赤が着たくなってもそれはそれでよし。

そんな風に思っている間に日付が変わったが、前回からの続きの日にちで投稿するのであった。