自己否定と改善の違い〜真の自信を取り戻す

わたしは歌をうたうのが大好きなのだけれど、ふと「最近ぜんぜん歌ってないなー」と思った。最近はあまり歌いたい気分ではなかった。元気がなかったのかな?

ともあれ、先日ひさしぶりに、すこし歌ってみたくなった。で、最近覚えた英語の歌を歌ったりしていた。

英語の歌を録音してみた

自分では、わりとちゃんと歌ったつもりでいた。が、なんの気なしにiPhoneのボイスレコーダーで録音して、ショックを受けた。自分の頭のなかではCDのように歌っている気分でいたのだけれど、英語の発音が思っていたのとだいぶ違っていた。

おおう。

そういえば、カラオケの採点機能を使っているときも、一生懸命あわせているつもりなのだが、採点によると80%くらいしか音程が合っていない。そういうかんじ。まあ、音程についてはね、あまりあってないのはすでに知っていた。知っていいたんだけど。発音は。

英語の先生から、発音を褒められたりすることも何回かあったので、じつはもう少しできているつもりだったかも。それが勘違いだった。うぬぼれていたと赤面した。ふおー。

しかし、ひとりで歌をうたって、録音して聴いたら想定より変だったといって、ほかには誰も聞いていなかったのだし、べつに恥ずかしがる必要はないのだった。なんだろう。この自意識は?

日本人が英語がうまくならないわけ

日本人の英語が上手くならない理由として、下手だと恥ずかしいからあまりしゃべらないということがよくあげられる。わたしは日本人の中ではすすんでしゃべる方なので、そういうのはないなと思っていた。けれど、じつはあったことに驚いた。「下手で恥ずかしい」という感覚が。「調子にのるな」と自分をこき下ろす内圧の大きさを感じた。

自分を「下手」と罵倒して落ち込むことには、なんの益もない。下手でもがんがん話した方がましというのも同意する。けれども、できていないのにできているつもりで、できていないことをできていないままで何度繰り返しても、そこで足踏みをしているだけで前へは進めない。

英語圏に暮らす移民の人などが、長年英語を使っていても下手なままというケースはそれだろう。まあ。その人はそれで生活の用は足せているのだろうし、わたしのような外野が上手いとか下手とか評価する筋合いではないのだが。

なぜそういうことが気になるのかというと、わたしは、できていないのにできていると勘違いしているのは痛いと思っていたからだった。そして「痛い人と思われたくない」と勝手に怯えていた。

けれど、過去をふりかえれば、あきらかに語学の達人みたいな人からも「英語の勉強をしていて偉いね」みたいな、やさしいことばはもらったことがあったけれど、いやなことを言われたことはなかった。

なのに、なんでそんなにビビっていたんだろう。よくわからない。

上手いと下手、ネガティブとポジティブ

「うまい」と思って調子にのることを恐れて「へた」とけなしていたけれど、それから「ネガティブはいけない」と思って、ポジティブになろうとすればするほど苦しくなった。それはたんに、とある物差しで「だめ」ということになった対象を、それを「よし」とする別の物差しに取り替えることで、「よい」という評価に変えようとしていたからだった。

新しい物差しを導入することで「そういう見方もあるよね」と納得できるのなら、それでもよい。しかし、わたしは内心、全然納得していなかった。納得できない物差しで自分を測ってOKを出しても、それは偽のポジティブだと思う。

結局。物差しだけ取り替えても意味がないのだと思った。うまくなろうと思うなら、下手は下手と認識することは必要だ。どこがどのようにできていないのか、どのように改善するべきかをきちんと見なくてはいけなかった。それは、べつにネガティブなことではないのではないか。

満足レベルの設定

たとえば料理について。

おもにわたしの料理を食べる人、すなわち自分と夫は二人とも現状のレベルで「まあよいでしょう」と思っている。もっと上のレベルがあるのはわかっているし、料理の腕があがるに越したことはない。しかし、自分より上手い人がどれだけいても、とくに卑屈な気分にはならない。

歌でも、好きなように歌って、実際よりうまく歌えている気分でいたとして、そんなに悪だろうか? べつに誰も困らない。一応、カラオケで人の迷惑になるほどではない(と思う)し、自分が気持ちよければいいんじゃないの? わざわざ下手だと自分で貶す必要はどこにもないよね。

たしかに貶さなくてもよい。しかし、やはり自分にとって、絵とか、歌とか、英語は、まだ満足レベルではない。じつは英語はそろそろ満足レベルかなあと思っていたけれど、間違っていた。もっと上にいきたい。

どこまでできれば「よい」ということにするか、どの物差しを使うか、それは自分で決めたらいいと思う。

現状に満足していないのは、裏を返せば、もっと上にいけると、自分に期待しているということだ。自分に期待することは、現状を否定することではない。

低い基準の物差しを持ち出して「これでできていることにする」みたいな形で自分をごまかさない。厳しい物差しを選びたいのならば、その物差しで合格点がとりたいのならば。やることは、まずきちんと測ること。できていないことはできていないと認識する。その上で、これからできるようになるのだと決意する。きっとできると自分に期待する。期待することを許可する。それが自信ということだ。

上に行くための方法論

録音するという手段は、現状を客観視するのに良い方法だったと思う。

聴いてみてできていないところに気がついてくらくらきたとしても、それはちゃんと聴かなくてはならない。そして、修正していくところをひとつずつ見つけて、改善していく。

改善ポイントを見つけることは自己否定とは違う。自己否定は破壊するだけだが、改善ポイントを見つけることは進歩への第一歩だ。

大きな違いは「攻撃性」。自己否定は自分を攻撃するエネルギーだ。

「だめだなあ」と思うことがあったとしても、それで自分を攻撃しない。だめなところを直すことにエネルギーを使おう。

自分を攻撃していると、そこでエネルギーを使い果たしてしまい、改善にまで力が及ばないということがよくあった。自分を攻撃するエネルギーの出力はゼロにしたい。

そういえば自分の免疫機能が自分自身を攻撃してしまうという病気があるよね。「自己否定」は、心の免疫不全症候群といえるのかもしれないなあ、などと思ったりはした。