嫌いな人を実はうらやんでいたという屈辱からの出発

嫌いな人を実はうらやんでいたという屈辱からの出発

こんばんは。永理です。

最近、過去のつらかった出来事などを見つめ直すというこころのワークをしていました。

そのワークの中で言われたことのうち、他でも聞いたことがある知見として、「嫌いな人というのは、実はうらやましい相手である」というのがありました。

その原理は理解していたつもりでした。

「こういうことはいけないんだ」と(自分で勝手に)思い込んでいるルールみたいなことを、ぬけぬけと破っている人が目の前にいたらムカつくだろうということは。

ステロタイプな例としては、「あの腹黒女、男の前で媚びを売って態度が違う!」とか、「専業主婦のくせに家事サボってるとは何事!」とか。まあもっとディープなものも色々あると思いますが。

人を嫌ってはいけないと思っていた

じつは「嫌いな人」を想定しようとして、「べつにそんな人いないな」と思ったんですね。最初。

幸い絶対つきあわないといけない人の中に嫌な人はいなくて。もし「嫌い」と思ったら近よらなければいいだけなので。

だから無理やり直近で、数年前。むかついた人のことをなんとか思い出しました。

といっても、もともと親しい人でもないし、もうつきあいもないので、「いまさら」なんとも思っていないつもりでした。

そんなわざわざ過去の傷をほじくりかえさなくてもいいのになあ、いやだなあと思ってワークをしました。そうしたらこころの深い所で、まだまだものすごくむかついて怒っていたということがわかってしまった。

忘れていると思っていたけれど、ほんとうは忘れてなどいなかったことにショックを受けました。

なんで忘れていると思ってたのか。

それは、「人を嫌ってはいけない」「怒ってはいけない」と思いこんでいたから。自分の中にそういう思い込みが、まずあったなあと気がつきました。

自分で自分を傷つける行為

そして、自分が怒っているのを「怒ってはいけない」と、徹底的に無視していたんだなあと。あんなに怒っていたのにガン無視していたんだなあと。

過去に起こった出来事そのものはどうしようもないし、嫌な人を変えることもできないかもしれないけれど。

そういう問題ではなかった。

「ひどいよ!」といいたかった。だれかにわかってほしかった。共感してもらいたかった。

でも当時、あまりわかってもらえた感じがなくて。まわりの人にも見捨てられたように感じた。世界に絶望した。どうせ自分のことなんてだれも考えてくれないんだ。とても悲しかった。

本当は、わたしのつらさ、悲しさをきいてほしかった。わかってほしかった。

それなのに。

そんなに怒って、傷ついて、悲しかった自分を、無視していたのも自分だったんだなーと気がついた。

そうだよ。

たとえ、まわりの人がだれも理解してくれなくて、だれも味方になってくれなかったとしても、自分だけは自分の味方になってもよかったんじゃないの?

それだけは自分で選べる自分の選択だったんじゃないの?

だれよりもわかってほしくて、わかってあげないといけない相手=自分自身を無視していたのはほかでもない自分。

なんということでしょう。

自分で自分の感情を無視して、なきものにしようと抑圧するから、そのエネルギーが怨念となって、無意識に自分の現在から未来に影を落とすのだよ。こわいよ。

嫌なことを言ってはいけないという思い込み

で、冒頭の「嫌いな人=うらやましい人」について。

それも最初は、「いや、その人が嫌なのは、やなことするからだし、自分はそんなことやりたくないし、うらやましくないもん。だれでもやなことする人は嫌いでしょ?」と思っていた。

むかし、「本当は自分も悪口いいたいくせに度胸がなくて言えないから、実際にはっきり言える人がうらやましいんだろう」みたいに言う人がいたのだけれど

「ちがう。本当に、ぜったい、いいたくなどない」

と、全身全霊で拒否したい気持ちになった。

もちろんこれまで一度も悪口を言ったことがないなどとは残念ながら言えない。それでも。少なくとも今は、できれば言いたくない。とも強く思っている。

だって、嫌なことを言う人は嫌いだから。自分で自分を嫌いになりたくない。ついやってしまったとしても悪いと思ってるしやめたい。

で、嫌なことはしないことでそれはそれでいいのだけれど。ふと気づいたのは

「あ、わたし嫌なことをいったら嫌われるって思ってるな」ということ。

それは、おおまかには事実といえば事実なんだけれど。

羨ましくなどなかったはずが……

でも、嫌なことを言ったことがないわけでもない自分も、まあふつうにそこそこ友達も作りながら生きてるよなと。

わたしが「なんて嫌な奴だ、大嫌いだ」と思っただれかも、ふつうに生きてるよなと。

むしろ、その人の方がわたしより人気あったりお金持だったり有名人だったりすることもあるよなと。

それだ!!!

うわーーん。

悔しいけれども。

これが、うらやましいということなのか!! と思った。

わたしは、嫌なことをしてはいけないと思い、そういうことをすると嫌われてしまうという信念を持っているのに、そういう嫌なことをしてさえも! 人気だったりする人が、う、う、う、うらやましいのか!!!

嫌な人=うやらましい人?

「嫌な人=うらやましい人」という図式はすごくショックなので、そこはちゃんと整理しないといけない。

結局、うらやましいポイントは「(嫌なことをしているのに平気で)ほかのひとから好かれている)」ところかと思った。

だってわたしは、そんないやなことをする人間は嫌われるべきだと思っていたから。

わたし自身はそういうことをする人が嫌いだし、嫌う人はほかにもいると思う。でも全員ではない。現にその人のことを好きな人はたくさんいた(ように見える)。

だから「それをやったら好かれない」という思い込みは嘘。真実は、それをやっても好かれることもある。「それをやったら好かれない」というわたしの信念は間違っていたんだ。

羨望ポイントを整理する

結局、いやなことをしていること自体がうらやましいのではなく。

人から認められている、愛されている、人気である、ということがうらやましかったのだ。愛されるには、よい性格でなければ!!と強く思っていたから「そんなに嫌なことをしてるくせに」と憎らしくなったんだ。

そうだ。

わたしは人に好かれたいのだ! 人気者がうらやましいのだ!

でも自分で自分に条件をつけて、たとえば「綺麗でなくては愛されない」「人間性がすぐれていないと愛されない」などなど、まあたしかにそういう人は愛されますよねということはあれど、それを絶対的な必要条件として、自分に当てはまらないところを見つけては「だからわたしは愛されない」という自己卑下する理由にしていたんだ。

だから、その条件に合っていないのに「愛されている」人が許せなかったのか!

憎んでいる相手を実はうらやんでいるなんて、なんという屈辱。

しかし、それは認めざるをえない。

でも認めたら手放せる気がするから、今度こそ永遠にさようなら!

こころの澱を一掃してちょっとすっきり。

そんな条件になどあてはまってなくても愛されていいんだよ! なんだ。そうだったんだ!

まとめ

そして、さいしょの話ともつながるけれども。

こんなに一生懸命、愛されたくて、わかってほしがっていた自分を自分で認めていなかったし、無視してきたんだなと思うと、涙が溢れる。

かわいそうなわたし。

よしよし。つらかったなあ。いややったなあ。

このように、過去の変な思い込みや、こころにこびりついたゴミをお掃除する日々です。

日々進化してる感じはある!

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