先日、複数のゲームのイベント〆切が重なったときのこと。
MacbookAirで「刀剣乱舞(とうらぶ)」をやりながら、MacMiniで「一血卍傑(ばんけつ)」をやりながら、iPhoneで「iDORISH7(アイナナ)」を操っていた。
複数のゲームを同時進行させて気づいたこと
アイナナは音楽ゲームなので、曲に合わせてタイミングよく画面をタップする。演奏中はフルにフォーカスを奪われる。けれども、曲が終わってスコアがでるまでの待ち時間とか、演奏後に獲得できるアイテムを整理するための画面遷移の時間があって、その待ち時間が少々かったるい。
そこで、その数秒の間に、「とうらぶ」や「ばんけつ」といったほぼクリックするだけのゲームをする。というふうに、こつこつと複数のゲームを進めていたのだった。
そのせわしない操作をしながら、ふと自分のリソースをフルに使っているという充実感を感じている自分に気がついた。
マルチタスクの是非
この話を持ち出したのは、べつに八面六臂のゲーマーぶりをドヤりたいわけではなくて。ふと「マルチタスク」ということについて考えたからだ。
複数のことを同時進行して作業するような仕事のやり方は、結局生産性が低くなりがちだから、シングルタスクを心がけよ、というようなビジネス書を読んで以来、ずっと「マルチタスク」は生産性が低いのだと思っていた。
ゲームに生産性などはそもそも求めていないというツッコミはさておき。
よく考えたら、それはやる内容によるよなあと思った。
かんたんすぎることには集中できない
そういえば小学校のとき、授業中よそ見ばかりしていて先生に怒られていたことを思い出す。外を見ていても片手間にちゃんと聞いていて、当てられたら正しく答えられたので、先生からは嫌われたものだった。しかし、授業で言われた課題もすぐに終わってしまい暇すぎたから、ついよそ見をしたり落書きをしたりするのをやめられなかった。
感心できる行為ではないかもしれないが、これらは他の子の邪魔にはなっていない。それなのにあきらかに授業妨害である、うるさく騒ぎ立てるクラスメートよりも自分のほうが怒られるのは納得がいかなかった。
さておき。
結局、必要以上にオーバースペックなリソースをタスクに割り当てると、その余った分が自然に別のことを始めてしまって障害となり、むしろ集中できなくってしまうのではないだろうか。
先述のゲームも、基本的にクリックするだけの「とうらぶ」は、それだけを集中して行うにしてはリソースがあまりすぎる。同じゲームをやっている友達も、だいたい「(作業の)合間にぽちぽち押してる」と言っていた。そういう種類のゲームなのである。それはそれでいいよなと思った。
「ライオンはウサギを捕るのも全力で行う」みたいになんでも全力でやらなければいけないみたいな呪縛にかかっていた気がする。まじめか。
たんに小学校の授業は、全力をだすほどの内容じゃなかっただけだ。一方で塾の授業は難しかったので、よそ見や落書きをする余裕はなかった。
集中するための必要条件
自動車教習所で、はじめは集中力を総動員して必死で運転していたとしても、免許をとって運転に慣れていけば、最初のようなフル集中は必要ない。会話をしながら楽に運転できるようになる。
自分の能力や作業内容のバランスで、フルに力を発揮する必要のあるスペックの作業は集中しやすいし、やりがいもあって楽しい。それ以上、上過ぎても下過ぎてもうまくさばけない。
それは、ふつうそういうものなのであり、「なんで集中できないんだ」と自分を責めても不毛だった。かんたんすぎる課題に「集中しろ」というのは、小学生のわたしでなくても難しいものだろう。
結局。マルチタスクは生産性が低いと決めつけずに、かんたんな作業はくみあわせて、適切に難易度を調整しつつマルチタスク化するのは、むしろ合理的なのではと思う。料理などはそれ自体がマルチタスクであるわけだし。
マンガを描くのに集中できなかったわけ
わたしは、マンガを描いているときに、好きなことをしているにもかかわらず集中が続かなくて困っていた。プログラミングのほうが集中できた。こんなに好きなのにマンガは向いていないのかと悩んだ。
しかし、そうではなかったのだとひらめいた。単に絵を描いている時に、言語脳のリソースが余っていただけだったのだ。
ある時、ツイキャスという動画配信サイトで配信しながら描いたらめちゃくちゃ集中できた。その時は理由がわかっていなかったが、たぶん余ったリソースをうまく消費できたからだったんだと思う。
そのあと、友達とスカイプしながら絵を描いていたときも進んだ。
誤解しないでもらいたいのは、わたしにとってマンガを描くことは、べつに「かんたんなこと」ではない。むしろむずかしいことだ。
マンガを描くのには、いろんな能力が必要で、論理や言語脳も使う。しかし、さまざまな力は工程ごとに使うので、絵を描く段階では、もうあまり言語的なリソースは必要がなくなる。すると、マンガの本質である「画」を描く工程において、わたしがふだん優位に使用している言語リソースが余ることになるのだ。
いままでは、描いている最中に、余った言語リソースで、不安になるようなセルフトークをつい脳内で行ってしまったり、雑念が浮かんできて気が散っていたのだった。そのことに初めて気がついた。
ほどよく力をださせるように調整する
そもそも、根本的にネガティブな考えに陥りやすい性格傾向を改められれば、リソースをネガティブシンキングに使わずに集中を乱されないかもしれないし、その他の日々のタスク管理や、集中するための環境整備をしていけば、より集中できるようになるかもしれない。
そうした別の課題はあるとしても、この「マルチタスク化してリソースを余らせないようにする」という方法を使えば、いますぐ結果はある程度でそうである。
ひとまずこれで、当座をしのいでみようと思う。歩いても間に合うところを全力疾走しろと自分に課すのはやめて、気持ちよくジョギングがしていれば間に合うくらいのスケジュールと作業負荷を調整すればいい。
何となく進めてたら、気がついたらできてたー、みたいなことも意外と楽しいのではないのだろうか。
むしろこれまで、自分が人から「すごいね」とか言われたことは、大部分がそんなふうに何となく当たり前にできてきたことばかりだったのかもしれない。