自分の中にある大きな愛に気がついた話

自分のブログで明確に語ったことは、もしかしてなかったのかもしれないけれど、仲のいい人は知っているとおり、わたしはマンガが好きだ。実は高校生くらいまでは「マンガ家になるんだ!」と思っていた。

大学生くらいからは「職業としてマンガ家になるというのは厳しそうだ」と、世間一般の人がいいそうなことを冷静に(?)考えて、マンガ家になることをいったんはあきらめ、会社員になった。

それでも、ずっと心のどこかには「いつかマンガを描いてやる」という思いが残っていて消えなかった。

しかし「将来〜〜しよう」と夢想するのは若者の特権なのかも、と思い始めた今日この頃。自分がもはや若者ではないという事実を直視したくはないけれど、夢を見ているだけで何もしなかったら、そのまま死ぬだけだよ、といつしか思いはじめた。

そう。

その「いつかやろう」の「いつか」っていつだ? 何時何分何曜日?

夢を叶えるために一番必要なこと

夢を叶えるために必要なことは、当たり前だけど、まず「それをやる」ってこと。それがないとはじまらない。

たとえば小説家になりたいといいながら、一本も小説を書いたことがないなんて話にならない。わたしも過去には10年でオリジナルマンガを一作くらいしか描いてこなかったので、まさにそれ。

やりたいならしのごのいわずに「さっさとやれよ」っていう。

まずはそこから。

やりたいことができない理由のひとつ

なんで描かないのか。もしかして本当はたいしてやりたくないのかも?と思ったりもしたけど違った。

忙しいとか、いろいろあるとしても、それは本当の理由ではなく、「お前なんかにはできない」「無理だ」って、実はやる前から無意識に思ってた。

自分で「無理」と思っていてはやる気が減る。それでもやりたい気持ちが溢れてきたときに、なんとかやり始められても、ずっと「無理だ」と思いながらやるのって、本当にしんどいよ。楽しくないんだよ。

好きなことをやっていても、なんで楽しくないのかなー、とずっと謎だったけれど、それは自分のなかで「無理だ」「だめだ」と思う気持ちと戦っていたからだった。しかし今冷静に考えると、その戦いって、まったくもって無駄でしたね?

どうせやるなら楽しくやったらいいじゃないか? ねえ。せっかく好きなことやってるんだからさー。

世間体を気にする心理や他人からの無意識への刷り込み

むかしはマンガ家という職業や、マンガ自体も今よりも低いものと見られていたから、萩尾望都先生のような巨匠ですら親には「早くやめなさい」と言われていたらしい。現在の若い世代でも、マンガを描いていると、親にいい顔をされないという人もいる。

そういうふうに、「やめろ」とか「無理だ」と否定してくる存在が、外部にのみいるならば、「なにくそ」という反骨精神を、むしろガソリンにして前に進むということもありえるのかもしれない。

わたしは、妙にいいこちゃんというか、親や偉い人のいうことを「ですよね」と迎合して内在化してしまうこともよくあって、やりたいことをやってはいけないという強力な自己矛盾を抱え込んだままに無駄に消耗しているだけの人生を送ってきた気がする。

なんかあれみたいだね。自分の免疫細胞が自分自身を攻撃するやつね。

Be yourself, no matter what they say…

親には、強力にいろんなことを「だめだ」と言われてきた。マンガに関してのみをとりあげれば、特別に大反対されたり、あからさまに邪魔されたことはなかったけれど、暗黙に空気を読んで「だめだ」と思う自分を内面に作り上げてしまった。

でも、どんなに人から「だめだ」と言われても、せめて自分だけでも自分の味方になることが大事だったと思う。自分の中に敵がいるのは本当にやっかいなことだった。

「無理だ」という思い込みを崩すには、というかそれが「思い込みである」ということ自体を認識できないほどに「無理だ」というのがあたりまえの真実として認識されていたから、こういうふうに「それは思い込みだった」と思えるようになっただけでもだいぶ前進しているのだけれど。

その「無理だ」を崩すために、思えばいろいろあがいてきたなーと思う。結果的に役に立ったと思うのは「やればできる」ことを着実に積み重ねることだった。

たとえばマンガの同人誌を作った。「マンガ家になる」と願ったとしても、なれるかどうかは人が決めることだから「無理だ」をくつがえすエビデンスを集めるのが難儀だけれど、まずは同人誌を作ってみるだけなら自分しだいで確実にできる。

一冊あたり10p〜30pほどのマンガを、そんなのプロなら数日から1週間程度で描いてしまうという程度のものだが、一月〜半年もかかって描いてきた。

そんなものたちが、先日部屋を片付けていたら、20冊〜くらいはあった。

I’ve never known how much I love it…

わたしとはちがって、「自分が大好きで、自分が描いた絵も大好き」という友人や知り合いがいて、本当にそういう人はうらやましい。

わたしなんかは、「自分なんかだめだ」というのがベースにある世界観で生きていたので、本を作っても、できたものを見た瞬間に「なんという下手!」と思って二度と見たくなくなったりする。それなのに作ったからといってそれを売るのが申し訳ないと、内心いつも思っている。

それでも、これだけ作ってきたのは、やっぱり何が何でもやりたかったんだよな、としみじみ思った。

ちょっとしかやりたくなかったら、こんなに大変なことはできなかったと思う。

だって、マンガなんか10〜20p読むのに、さっと読んだら五分もかからないかもしれないけれど、描くのはどれだけ時間がかかって大変かわかりますか? いやべつに描かない人に、大変さをわかってくれとは全然思ってないんだよ?

そういうことが言いたいのではなくて、

こんなに大変なことを、なんの見返りもないのに、むしろ、やっても人から馬鹿にされたり、出来上がったものも自分で満足のいく出来になったことすらほぼないにもかかわらず、長年にわたって、こつこつと、一人でやりつづけてきたという

この事実を

まさに今この投稿を書きながら、はじめてそうだったと認識したのだけれど

それって、よく考えたら、ほんとうに、ものすごく好きなことなんじゃんね。

いやー。

ちょっとこの瞬間にそれを発見して。

驚いた。

わたし、自分がこんなに、ここまで好きだったってこと、ぜんぜん知らなかったんだよ。

こんなに好きなのに。好きな気持ちをこんなにないがしろにして生きてきたんだよ。なんという!!

はーー、もう、かわいそうな人だね!! 

そして自分でそれを選んでそうしてきたんだよ。

涙でた。

やばい。

So, what?

で、好きだって

大好きだってわかったところで。

ていうか、この記事を書く前はそこまで好きとはわかってなかったんだけれど

好きなものをどうするのか?っていうところで。

そういうことを考えるコミュニティ「あたらしいマンガ道」に入ってました。

で、そのコミュニティが運営するwebマガジンで、八月から連載してました。

 

[ss url=”https://geecrat.com/o3po” width=”180″ class=”alignleft” alt=”マンガ道お散歩日誌” rel=”nofollow” ext=0 title=”あたらしいマンガ道webマガジン連載「マンガ道お散歩日誌」” caption=”あたらしいマンガ道webマガジン” hatebu=1 tweets=1 likes=1]

実は、この連載はじめましたよーということを書こうと思って、そのために記事を書き始めたんだけど、書いているうちに思いがけず自分のマンガ愛が爆発した。びっくりだよ。

そして、その愛に対応する「じゃあどうするんだ」という行動を、もうすでに自己認識に先んじてとっていたということだったんだと思った。すごいな。びっくりしたわ。

img_7159.jpg