保留に耐える力を鍛えたいと思った話

先日とある漫画の書き方本を読んでいたとき。

その漫画家が弟子に「〜〜しなければいけない」というアドバイスをして「でも、◯◯先生(別の巨匠)は、〜〜してないですよね」と反論され「じゃあ、お前は◯◯先生なのか」と諭していた。

よくあるタイプの反論封じだと思う。本全体としては、役にたつことも多かったし、とてもよかったのだが、この説得の流れにだけはひっかかった。

それは、◯◯先生のような巨匠にだけ許される方法論なのか? ほんとうに? という検証があるわけでは当然なく、◯◯先生はすごいからいいが、お前ごときには無理、と決めつけてるだけみたいに聞こえる。

納得はできないが、とりあえず黙らされる流れ。しかし、冷静に考えれば、単にくだんの漫画家が「〜〜すべき」といった方法も、別の「◯◯先生」の方法もひとつの方法にすぎないというだけのことかもしれないのに。

たとえば、「きみのこの作品の場合は〜〜という理由により、こっちの方法のほうが合ってると思うよ」とかだったらわかる。

あるいはたんに「◯◯先生のようなやり方もあるかもしれないが、自分はこちらのやりかたでずっとやってきたから、◯◯先生の方法なら教えられない」とか。そういうことじゃないのだろうか。

それを「じゃあ、お前は◯◯先生なのか」って、そんなわけないよね。他人なんだから。

この有無を言わせない感じの反論封じがね。嫌いだった。

これってわたしの大嫌いな「ブログに日記を書くな」論者が、反論されたときに「アクセスいらないなら好きに書けばいいんじゃない」と返す流れとそっくりであると思ってしまった。

別にアクセスいらないと言ってないよね?

そんなあてこすりを言うなや。性悪か!

自説に異論をさしはさまれたときに、論そのものには言及せず、たんに嫌味をいったり、相手の未熟をえぐったりしてうやむやにするのは、わたしの美意識に大いに反することであり、嫌悪感を覚える。

教育とは何らかの方法論を伝授することが含まれるが、自分の提示しているやり方はひとつの指針にすぎないかもしれないという観点がない教育者は、他の考えを認めないという態度になり、抑圧的な教育をしがちだ。

まともに議論したり教育したりする気がそもそもなく、単に自分の思い通りにことを運びたいだけという人も、自覚的にせよ無自覚的にせよ、よくいるので、その辺はよく見極めないと、話をする労力を掛けるだけ馬鹿を見るということもある。

結局、人から何か言われても、そのまま鵜呑みにせず「ほんとにそうか?」「何故そう言えるのか?」「自分の場合はあてはまるか?」と検証してから取り入れることが大事だ、という、こう書いてしまえば当たり前としか思えないことをしみじみ思う。

そこで疑問をなげかけたときに「屁理屈を言うな」といいつつ、むしろ自分の方こそ相手を貶めているだけの屁理屈を言って丸め込もうとする人もいる。

そういう人を前にしても、恐縮したり卑屈になって「わからない自分が悪いのだ」みたいに全面降伏しなくてもいいんだと、やっと最近思えるようになった。

ちゃんと納得のいく説明ができる人もいるのだし、論理的に破綻していたり、納得のいかない事柄にたいしては、たんに権力者やみんながそう言うからという理由だけで、無理にそうだと思い込もうとせず、エクスキューズをさし挟んだ状態で保留にしておいてもいいということにした。それでいいと思う。

冒頭の、漫画の書き方指南本に対してもそうだ。100%同意していなくても、役にたつところを利用させてもらえばいいだけだ。

大人になるってそういうことかな、と中年になってようやく思い始めた今日この頃である。