「気にしない」「そういうもんだ」ですむ話ならそれでいいけど…。

昨日の、”「人と比べない」とかよく言われるけど、そんなのそもそも無理ゲーじゃないかと思った話”に、ひきつづき

人間の黒い感情、嫉妬について考えてみる。

こどもの頃うらやましかったことについてふと思い出す

わたしが小さいこどもで、おこづかいが100円くらいだったころ(笑。ともだちが、小銭がずっしりはいって重い貯金箱を見せてくれた。

親にたのまれてお使いに行くたびに、おつりの小銭をお駄賃としてもらえるので、それを貯めていたんだって。

そのときのわたしにとって、1000円以上は持った事のない大金だったから。ずっしりと小銭が何千円分か貯まっている貯金箱を見て。

うらやましいと思った。

わたしもお手伝いでお使いに行ったりすることはあったけど、うちの親はおつりをくれたりはしなかったので。

ずるい」と思った。

「ひとはひと」と言うこと

こういうことを親に言うと「よそはよそ。うちはうち」などと言われると思う。

こどもは、人間的にも未熟だし、自分と他人の区別があまりついていなかったりもして、安易に人の持っている物をほしがったりする。

でも、世の中には、とんでもなくお金持ちの家もあるし、逆に親もいなくて売られて奴隷のように働かされているこどももいるらしいということなど。

成熟するためには、自分の周りの狭い世界のことだけではなく、いろんなことがあり得るという情報をなるべくたくさん知っている方がいい。

ひとはひと」というとき、「他の人を見るな」「気にするな」という意味で使われることが多い気がするけれど。

ほんとうは「ひとはひと」と言うときには、その「ひと(他人)」というのははたしてどんなものなのか、なるべく詳しく、たくさん、いろいろ知っておくにこしたことはないと思う。

それは「気にしない」ですむ問題なのか?

となりの子が持っている人形を自分も欲しいと思った程度のことなら、つとめて「気にしない」でいる間に、忘れるとか、欲しくなくなるということはあるかもしれないけれど。

それは所詮その程度の問題だっただけだろう。

こどもにはしたり顔で「ひとはひと」と言っている大人だって、じつは相変わらず他人をうらやんだりして、どす黒い感情をもてあましていることだってある。

それは「そういうもんだ」で納得できる話なのか?

むかしは、百姓の家に生まれたら百姓にしかなれないとか、今より制限があったみたいだけれど、大部分の人は「そういうもんだ」と受け入れていたんだと思う。

どの家に生まれるかは、自分で決めたわけではなく「たまたま」であるわけだけれど、そのたまたまをどう受け止めるかという問題。

たまたま、百姓の子に生まれたら「俺は武士になりたいのに、なんでだめなんだよ!」といっても、たいがいはどうにもならない。

ならないけども、「おかしいじゃないか」「ずるいじゃないか」という人がたくさん集まって、どうにかすればいつかはどうにかなる、かもしれない。

現にいまはどうにかなってる。というか武士自体なくなったけどね。

でも長い間「おかしいじゃないか!」と言い続けて、自分やまわりや社会を変えようとするのは、とても大変なことであり。

はやめに「そういうもんだ。しょうがない」と思い込むようにした方が楽、かもしれない。

はたしてどうか。

わたし個人としては「ずるいじゃないか」ということに真っ正面からぶつかって、正そうとする態度は強く応援したいと思っているけれど。

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所感

一方で、「あいつはイケメンというだけでモテてずるい」「あの子ばっかり幸せそうでずるい」のように、きわめて個人的な感情から「ずるい」と思うような場合には、自分でもこの感情を肯定しにくいし、人からも応援されない。そんなときにどうするか。

嫉妬ってようするに「ずるい」という感情な気がするんだ。

一般的には

「(小さい問題は)気にしない」「それはそもそもそういうものだと思い込む(しょうがないとあきらめる)

という感じで対処していると思うのだけど。

わたしは、まだそれでは消せない嫉妬の炎について語りたかった…。

が、時間切れのようです。たぶん、また明日。

photo credit: bradipo via photopin cc
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