昭和に生まれた人間として、「謙虚」を強く身に染み込まされていることを折に触れて感じる今日この頃。
現代では、己の美点や長所を的確に認識し、これを伸ばして生かすことで社会の役にも立ち、己の生きるたつきにせよという考えが主流であるように見える。
気軽な会話の中では、多少の謙遜があってもよいかもしれないとは思うものの、それが度を越して「自己卑下」の域にまで達することがあれば、話し相手としてもむしろ返答に困ると思う。
「謙虚」を美徳とする価値観はいささか時代遅れになった感がある。
「謙虚」の意味を改めて確認する
そんなことをふと思ったので、辞書であらためて「謙虚」の意味を確認してみた。
【謙虚】控え目で、つつましいこと。へりくだって、すなおに相手の意見などを受け入れること。
念のために関連する語句も調べる。
【へりくだる】相手を敬って自分を控えめにする。謙遜 する。卑下する。
一応「卑下する」もみてみる。
【卑下する】自分を劣ったものとしていやしめること。いやしめて見下すこと。
以上の調査によって、確認できた「謙虚」の意味として、概ね下記のように再確認した。
謙虚→控えめにする。相手を敬う(≒自分を卑しめる→見下す)、すなおに相手の意見などを受け入れること。
なるほど。
「謙虚」の語感が内包する世界観
やはり、「謙虚」には「自己卑下する」ニュアンスが、背景にあるように見受けられる。自分の経験による体感としてもそういうイメージだ。
しかし「相手を敬う」のは、わざわざ自分を貶めなくてもできるのじゃないか?
相手を高めるために自分を落とすというのは、例えば「殿様と家来」みたいな階層的な上下関係を前提とする世界観からきている気がする。
その階層的な世界観を共有している人たちにとっては、持ち上げられたほうは気分がいいし、へりくだって自らを貶めているほうも、その階層の中で一定のポジションを得ることができる。
だが、もはや世界はフラットである。
少なくともわたしの世界観はフラットだ。
だれかが勝手に階層を作って、勝手に評価基準をつくって、勝手に他人をジャッジして、たとえそれがよい評価であろうと悪い評価であろうと、そんなものはわたしには関係がない。
フラットな世界観の人間から見ると、威張っている人間と同じくらい卑屈な人間もうっとおしい感じがする。卑屈にへりくだっている人は素敵に見えない。
そんなことを言っておきながら、自分もうっとおしい人間だったと思う。あるいはときには逆に傲慢だったのかもしれない。いずれにせよ、これはもうやめたい。
結論
というわけで、「謙虚」とか、もういらないわ。
「控えめであれ」というのも、本人の資質や場合によると思うから、万事に通じる行動指針にはなり得ないと思ったし。
「すなおに人の意見を聞く」という部分はいいと思うけれど、あえて「謙虚」といわなくても、そんなのただの「すなお」でいいのじゃないか。
「謙虚」の語感に含まれる文脈で「人の言うことを聞く」というのは、「相手の意見をたてなくてはならない」「なぜなら相手のほうが自分より偉いから」みたいな背景心理が垣間みえる気がする。
そういう、自分はだめだという前提からではなくて、もっと自分は自分としてしっかり立つ。自分の軸をもった存在として、相手の意見をニュートラルに聞き、取り入れられるものはありがたく受け取るという感じがいい。
わたしは「相手を敬う」が、同じように「自分を敬う」。必要なときにはむろん他人には丁寧に接するが、儀礼としての範囲以上にはへりくだらない。自己卑下しない。すなおに人の話を聞く。
そして、「自己卑下」のニュアンスが含まれる「謙虚」「謙遜」ということは、今後は意識してやめることにしようと思った。