「ありのままの自分で生きる」とは?

ブログで自分の過去のつらかった思い出などを書いたりしているうちに、ちょっと楽になった。そして、すこし明るく前向きになれた。

なぜそのように変われたのかということをここでいったんレビューしてみようと思う。

レビューの必要性

自分が無意識で信じていることは、無意識で自分の人生に大きな影響を与えているのだけれども、自分でそれを認識できないというところがある。

認識できた時点で、それはもはや無意識ではない。

で、無意識で思っていたこと、「こうだ」と思っていた世界観などにたいして、「ああ、そんな風に思っていたんだ」「それは違うかもしれない」などと気づくと、

その気づきそのものによって、若干無意識や世界観自体も変容する。そして、またその変容もあまり自分では認識できない。

しかし、それでは困る。

というのは、あとから振り返って「どうやって乗り越えたのかな」とか。次につまづいたときにどうしようかな、という方法論として経験が活きないからである。

というわけで、無意識を完全に言語化できないなりに、どうやって変容を起こせたのかについて、のちの参考になりそうなことを書いておきたい。

因果関係の逆転

自分の人生を自分で台無しにする考え方として、長年「自分はダメだ」という自己否定感を根強く持っていた。

その自己否定を持っていること自体はずっと知っていたし、「それをなんとかしなければ」と取り組んできてもいた。

でも、なんとかしようとしても、つぎつぎとダメなことばかりでてきて、どうにもならなかった。

しかし、間違っていたのは、根本的な考え方だった。

以前は、「自分は〜〜だからダメだ」と、たくさんの理由をかかげていた。

そして「そこを直しさえすれば、ダメじゃない自分になれる」と思っていた。

そして、いっしょうけんめい、その原因を直したり潰そうとした。

結果、直せたこともあるし、なかなか変えられないところもあった。しかし、どうやっても「自分はダメだ」という思いを消すことはできなかった。

結局、実際には順番が逆で、「自分はダメだ」と決めつけているから、わざわざダメなところをたくさん探してそれを理由にしていたのだった。

だから、ダメなところを一部克服できたとしても、まだ次のダメなところを探して新しいダメな理由にしていた。

いちゃもんをつけようとすればいくらでもつけられる。「ダメだ」という前提で、ダメなところ探しをしていたら、死んでもダメなところはなくならない。

で、解決策は

はじめにやることは、ただ「自分はダメだ」という全面的な決めつけをやめる、ということ。

たとえ、決めつけをやめても、かわらず欠点もある。

「こんなことしてしまった、ダメだなあ」「失敗した」「悪かった」と、思うこともある。

それを、かりに努力自体は評価に値するとしても、むりに「がんばったから」とかいって無理やり「だめじゃない」という正当化はしない。

自己欺瞞的に「それはそれでよかった」ということにしたり、見なかったことにしたりもしない。

「ダメはダメ」でいい。

しかし、そうであっても、「だから、お前は【全部】ダメなんだ」と思うのはやめてもいいんじゃないか。

うちの親はいつでもそういう感じの論調だったのだけれども。やっぱりそれは違う。違ったよ。それは間違っている。

よくもまあ、こんなどでかい呪いをかけてくれたものだ。この種の呪いにより、育ててくれた恩などの、よかったことが、そうとう目減りしてしまって、親に対する感謝といった思いが、素直な気持ちとしてほとんど湧いてこない恩知らずな人間になりはてた。つらみ。これは克服できるだろうか?

さておき。

うちの親がどう言おうと。

たとえ「ダメなことをしてしまっても」「それが全部ではない」。

それが事実だと思う。

ありのーままのー

単に、中立で客観的な認識をするということ。一部の評価を存在全部に敷衍しないこと。

自分をありのままに受け入れるってそういうことだったのかなと思った。

いままでは「ありのままの自分でいい」「ダメでもいい」といわれても、

「ダメはダメだろう」と

どうしても納得いかなかったけれども、

なんというか、まだうまく説明できておらず、説明を練る時間もないので、このまま投稿してしまうけれど

たぶん、「あーそういうことか」とわかった。と思う。

とりあえず、もう一度言っておこう。

たとえ「ダメなことをしてしまっても」「それが全部ではない」。