伝統的な学習戦略である「守破離」について考える

「守破離」という思想がある。

物事をマスターする過程において、まずは師匠の言うことを盲目的に「守」り、ひたすら「真似ぶ」。これを基礎とし、次に「破」で自分なりに応用を加え、「離」で完全に技能を自分のものとする。

現代風にアレンジすると、おもにこの「守」の段階と同じようなことを言っていると思われるが「TTP(徹底的にパクる)」という戦略がある。

これらの学習戦略について考えてみた。

photo credit: ATOMIC Hot Links via photopin cc

「守破離」が成立するための大前提

もともと「守破離」というのは、伝統芸能や武道の習得などの場面で使われていた。

これらは、長きにわたりたくさんの人間が習得してきた歴史を持つ。当然、技能を習得するためのノウハウも洗練されてきた。そこが重要な前提である。

こういった伝統的なものを習得しようという場合、初学者があれこれ工夫するより、おとなしく先人達の知恵に従ったほうが早道だ。多分おなじような試行錯誤の末に到達した境地がすでに提示されているのだから。

だが、わたしたちが学ぶべきことは伝統芸能のようなものばかりではない。つまり重要な前提が担保されていない

下記がその例である。

代々伝わるおばあちゃんの七面鳥レシピの話

ある家庭に、三代続くレシピがあって、七面鳥を焼くときに両端を切り落とすという手順があったという。

あるとき「なぜそうするのか」と娘が母にたずねたところ、母親は、自分の母親にそう教わったからとしか答えられなかった。そこで、祖母に理由をきいた。

すると「当時使っていたオーブンには切り落とさないと七面鳥が丸ごと入らなかったから」というのが答えだった。

つまり、大きいオーブンで焼く場合には、切り落とす過程は不要だったのだ。

だが、彼女の母親は「なぜそうするか」を考えなかったので、丸ごと入る大きなオーブンを使っているのに、無駄に七面鳥を切り落とし続けてしまっていた。

TPP(徹底的にパクる)が、ショートカットで効率がいいのは「自分で考える」「試行錯誤する」過程をすっとばしているからだ

「こういうもんなんだ」と、とりあえず疑問は脇において「言われた通りにやる。」

しかし、そればかり続けていると、しだいに「こういうもんだ」という観念が無意識に刷り込まれてしまい、疑問を持たなくなってしまう。

伝統芸能のように、先人がすでに最適化してくれている方法論ならばそれでいいかもしれない

それでも、状況が変われば、現実に適合しない部分が出てくることはないのだろうか?

オーブンが大きくなれば、もう七面鳥はカットしなくても丸ごと焼けるかもしれないというような?

なるほど、それが「破」という段階かもしれない。

だが、盲目的に「こういうものだ」と思ってやり続けてきたことに、改めて疑問を持つというのは、なかなか難しい。

丸パクリする際の思考停止のデメリットについて認識したほうがいい

ショートカットを求めるばかりで、自分で考え、疑問を差し挟むことを回避していると、「なぜだろう」と考える回路が発火しにくくなる

やたらに「何で?」としつこい子どもはよくいるが、たいがい大人にうざがられるので、そういう思考回路は成長する過程でほとんどスポイルされてしまう。

結果、大部分の大人は「だってそういうものだから」という受け身の姿勢で物事に相対する習慣を身につけてしまっている。

「TTP(徹底的にパクる)」の有用性、メリットは確かにある

「パクる」という言葉は、通常あまりいい意味では使われないわけだが、それをあえて使うことで、インパクトを与え新しい概念を提示していると思う。

問題は、「何をパクるか」である。

へんな癖を最初につけてしまったら、あとから直すのに苦労するということだってあるわけである。

しかし、それが「変かどうか」は、えてして習得したあとにならないと判断できなかったりするものだ。つまり事前にわからないことが多い。

所感

ならばどうすればいいのかというと、結局、多少効率が悪くても、「自分の頭で考える」ということを大切にするほかないのじゃないか。

「これはおかしいと思うけれど?」「もっとこうしたらいいのでは」などなど、さまざまに感じたことは、あまりないがしろにしないほうがいい

「なぜそうするのか」と聞いたときに答えられない師匠にはついていかなくていいぐらいに思っておいたらどうか。

中には、自分に盲目的に従わせるために「守破離」という言葉を持ち出しているだけのように見える人もいる。

師匠の言う通りにするとしても「なぜそれをやるのか?」という視点は、常に持っておいた方が安全だと思うのである。