凹むことを掘り下げると見えてくるもの

自慢じゃないのですが、わりと凹みやすいのです。ええ、豆腐メンタルと言って良いでしょう。

時に日常生活に支障がでます。大人としては、もうちょっと精神的な安定感が欲しいものだとつねづね思っていました。

自分に多くを期待しすぎると落ち込みやすくなる

「最近落ち込んでて」みたいな雑談をスカイプの英会話でした時に講師に言われたのは

「期待が大きすぎるのでは」

ということ。

確かに、自分に期待していることがなければ、自分にがっかりすることもないわけです。

じゃあ、自分に期待することが悪いのでしょうか?

そうはいっても、自分に期待するものがあるからこそ、がんばろうという意欲もわいてくるものですし、「自分には無理」とあきらめているふりをしていても、実際には「どうせ」とやさぐれているだけだったりもします。

自己否定の奥にあるもの

落ち込むのは「自分なんてダメだ」という自己否定の気持ちからですが、ダメと判定するのは、自ら設定した何らかの基準に基づいているわけです。

しかし、その基準はどこから生まれるかというと、それこそまさに自分がやりたいこと、望んでいることではないかとふと気づきました。

自己否定的な人は、「どうせ自分なんて」という思いが大きすぎて、じゃあ何がしたいのかということ、すなわち夢や希望を見失いがちです。

しかし、実は自分が何に落ち込むのかは、自分に何を期待していたのか、どんな自分になりたいのかの裏返しだったんですね。

できないとき凹むことと平気なことの違い

「このくらい出来ないとカッコ悪いな」と思っていることの出来が悪いと凹みますが、別に出来なくてもいいやと思ってることは、出来なくても凹みません。

例えば、わたしはゴルフはやったことないので、出来ないと思いますが、やりたいとも思っていないので、出来なくても全く凹みません。

早起きとかもした方がいいんだろうなと思いつつ、そこまで切実にやりたいわけでもないので、出来なくても凹みません。

でも、タスク管理が滞ったり、今日予定していたタスクが思い通りに進まないと凹みます。

食べすぎて体重が増えたら凹みます。歌がうまく歌えないと凹みます。

その他もろもろ、些細なことでも凹みます。

もしかして、何でも凹むという人は、「自分はすべてのことをうまくできてしかるべき」と思っているのかもしれません。

自己否定からの脱出口

落ち込んでいるだけでは、何も見えません。

やみくもに自分を自己否定の刃で傷つける前に、何に落ち込んでいるのかなあと優しく自分に問いかけたらいいのかもしれません。

「Aでない自分はダメだ」と感じるということは、つまり「わたしはAでありたい」ということなのですね。

まずは、自分の望みをまっすぐに見つめる。

そして、ダメだダメだと、辛い気持ちで生きなくてはならない理由などどこにもないと知る。

自己否定を辞めることは、自分に何も期待しないことではないし、自分の望みを諦めることでもない。

期待に胸を膨らませて、ワクワク生きてもいいわけです。

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