死ぬまでにやることを限定していこうと思った話

昨日、死を間近に控えた夢を見た。詳細は忘れてしまったけれど、とりあえず怖かった。


これまでは、頭ではわかっているつもりでも、自分がいつか死ぬということには、あまり実感を持てなかった。うつ状態で「死にたい」みたいなことをふと口にしてしまっているときですら、死は実感がうすい空虚な概念だった。

それにしても、夢の臨場感は怖かった。

そしてやっぱり、まだ死にたくないと思った。

自己啓発系の本などを読むと、「葬式で参列者になんと言ってもらいたいか」「今日が人生最後の日だったら、同じことをするか」「あと一年しか生きられないとしたら何をするか」といったことを想定しようというワークがある。

若いうちから、そういうふうに真剣に人生の目標を定められたらよいことだと思う。しかし、死の実感がないままワークをしても、どうにも薄っぺらい、本気度が低いことしか思いつけなくて、ほとんどぴんとこなかったものだ。

でも、本当にもうすぐ死んでしまうとしたら、残りの人生で何がしたいのか。何をしている場合じゃないのか。夢の臨場感によって少し真剣に考えることができた。

あるいは逆に80歳とか100歳を超えてまで生きるとしたら、何をするんだろうなとも考えてみた。

長く生きることを想定すると、そのために「今のうちに〜〜しなきゃなあ」(例えば老後のお金を貯めるとか、健康維持のための何かとか)と、義務的なことばかり思いついて、うんざりした。

早く死ぬと思った方が、無駄なく最低限のことを太く短くやろうという意欲がわく気がしたのだが、それは刹那的に欲求を満たそうという短絡的傾向があるということなのか果たして。

もっとも、かりに長生きできたとしても、しだいにやりたいことのうち多くのことができなくなっていくことだろう。

そう考えると、やりたいことができる時間というのは、はっきりと認識してこなかっただけで、すでに限られているんだろうなと思った。

これから何をやるのか、何をやらないのか。もっと真剣に考えよう。

くだらんお喋りや、なんとなくやっていること、たいして見たいわけでもないテレビ番組や、ネットサーフィン、やりたいかどうかわからない勉強、みたいなことにお金や時間を使っている場合じゃない。ひとつひとつの物事に丁寧にとりくんでいきたい。