かけがえのない自分として生きるために

数日間毎日ブログを連続更新できたのに、また少し止まってしまった。気を取りなおして再開。

昨日まで熱く語っていた「好きなことをして生きる」について、別の面から考えてみた。

人は通常社会の中で生きている。社会の中で居場所が必要だ。

現代に生きるわれわれ大人の代表的な居場所には、家庭と職場がある。

機能を提供するための場=職場

ところで、仕事というのは、ある種の「機能」を社会に提供して対価を得ることだという見方ができると思う。

たとえば営業は「ものを売る機能」を、経理は「帳簿をつけたり、財務諸表を作る機能」を提供する。

会社の場合、求める機能を提供してくれればいいから、通常は「絶対にその人でないとだめだ」ということはない。ちなみに帳簿上も、通常社員と言われている人たちは、人材といえば聞こえはいいが、ようは備品と同列の扱いだ。

また、どれだけ会社に貢献してきた歴史があろうと、不運な事故や病気で一定期間以上機能をはたせなくなればお払い箱となるのがふつうだろう。

機能だけが価値ではないはずの場における理想と現実

家庭という場では、もう少し「その人でなくてはならない」感がある。とりわけ幼い子供にとって、母親は唯一無二のかけがえのない愛情の対象であることが多い。

しかし一方で、昔の妻は子を産む機能を満たせなければ実家に返されることもあったと聞くし、現代でもエリートの夫が失業して「給料を持ち帰る」機能を果たせなくなったら、離婚されたりする例もある。

統計によれば、男性の年収が低いと独身率が高くなる。だから、金持ちになって女にもてたい、ということがモチベーションになったりもする。

それでも、努力して金を稼いだあとで、つきあった女性が実は金「だけ」が目当てとわかったら、夢がかなったと喜べるだろうか。やはり傷つくのではないか。

「財力」や「性的魅力」などの機能は、自ら努力して獲得してきたとしても、その「機能」「のみ」を求められるのはうれしくないことにちがいない。

あからさまに男の金目当ての女とか、女の肉体目当ての男というようなものと喜んでつきあいたくはないだろう。

なんでこういう話をしているのかというと、たとえば「ブログには役にたつことだけを書け」「お前の個人的なことはどうでもいいんだ」というようなブログ観は、「特定の機能を満足に果たせなければ価値がない」とする点において、こどもを産めない妻は離縁される世界観に通じる感じがしたのだ。

おわかりいただけるだろうか。まだうまく論旨を整理できてないので、賛同いただけないかもしれないのだが。

それでも高い機能を提供することだけが価値ではない

「仕事」では「機能」「のみ」を求められることは、ふつうによくあることだし、家庭を築く場合でも、配偶者としての「機能」があまりに低いと結婚しづらい。だから人は高機能な自分になることを目指す。

だけどだけど。

俺たち人間は、「機能」「だけ」を提供する機械じゃないんだ。もっと個人として、存在したいんだ。そう思わないか?

「高い機能」を提供して、社会のお役に立てたら嬉しいと思うこともある。仕事は、お互いが納得しあって「機能」と「お金」を交換しているのだからその限りでは対等だし、それはいい。

ただ、つねに他人を自分にとって何かを与えてくれる「機能」として見るような人がいて、そういう人は、他人に「なんらかの機能を果たすこと」を暗に要求する。

わたしは、親から「他人に自慢できるこども」の機能をはたすことを長年強要されては失敗して打ちのめされ続けてきた。「機能を果たすことがなければ存在価値が低い」というような観念を信じ込んでいた。

でも、そうじゃない。そんな思い込みはもういらない。

だれかが暗黙に要求している機能を満たそうとしなくてもいいし、要求を満たせないことで、自分の価値を貶めなくてもいい。

機能を果たす限りにおいて存在することを許されるような儚い生き物としてではなく、もっとかけがえのない自分でありたいから。

自分が、自分自身として、個人として存在できる場所を作りたいんだ。そのための手段のひとつがわたしにとってのブログなんだと思った。