こんばんは。まだ、風邪が治らないので、本日も音声入力でブログを投稿します。
思ったんですが、風邪で鼻声がひどいと若干認識率が落ちますね。
いや、寝起きのはっきりしない頭でモゴモゴ喋った時の方が認識率が悪いか。
ともあれ、風邪とはいっても、たまには仕事もしないといけないので、今日は何とか少し起きて絵を描いたりしていました。
絵を描いていたら、少しは元気になれた気がしたので、調子に乗って別の絵を練習のために描いたりしてみたところ。
なんかあんまり気に入らない。どうしてくれよう、と思ってつらつら考えた。
自分の才能は落ち込んだときに見つかることもある、らしい。
そういえば、私は一時期あまり絵を描いていなかったことがあって。
それは、うまく描けないとフラストレーションがたまるから。
自分にとって重要ではない分野だったら、それほどうまくできなくてもたいして気にならないけれど、
自分が好きなこと、やりたいことで、自分がうまくやれないとものすごく気になるじゃないですか。
作家の本田健は、「自分の才能の見つけ方」という著書の中で、うまくできなくて落ち込むことの中に、その人の才能があると言っていたので
自分は絵が下手で落ち込むという場合、それは逆に自分には絵の才能があると言うことの証明だという見方もありなのかと思ってみた。
才能を見つけたとして、それをどうするのか
確かに、下手だなーと落ち込むのは、上手い下手が自分で判別できているということだし、そういう判断基準があるという事は、上達のためには必要なことだ。
それはひとつの才能と呼んでもいいのかもしれない。
ただしその才能を花開かせるには、下手だなーと落ち込んでやる気をなくしてしまってはだめなんである。
完璧主義を手放すべきか
うまくできないとやる気をなくしてしまったり、そもそも取り組むことをはじめないというのは、しばしば完璧主義という言葉で説明されていて。
曰く、完璧主義者は物事をすべて、完璧にしたいと思うあまり、物事を成し遂げられないので、完璧主義を止めるべき。
なるほどと思うのだが、これはどうもわたしにはうまくいかない。
まず、自分の勝手な基準かもしれないが、こんなレベルでは満足できないという気持ちは厳然とあるわけで、これを単に棄却してやめるというのは、いかなる根拠によればいいのか?
依頼した人がいる場合においては、相手の要求水準にあわせるというのはひとつの根拠となりうるが、それ以外の場合には?
そもそも、自分の現在の自然な心のありようを単に否定するのは、それ自体苦痛をともなう。
完璧主義に積極的に加担してみるという解決案
それぞれの事柄に対しては、その人なりの満足レベルがあると思う。
たとえば、料理。わたしは、料理はそれほど好きでも嫌いでもないが、自分で作った料理にはそこそこ満足している。
これは別に料理が得意なわけではなくて、要求水準がそれほどでもないからだろうと思う。でも、これで満足しようと無理に意図しているわけではない。まずいものを我慢して食べているわけでもない。
たまたま、自分の満足レベルを満たせることがあるし、満たせない事がある。満たせなくても別にいいやと思う事もあるし、いやだと思う事もある。
それは、全然コントロールできないということもないかもしれないが、たとえ自己満足とのそしりをうけようとも、はいすみませんと都合よく捻じ曲げられるとも限らない。
ようするに、自分が、この程度じゃ嫌だ思うなら、なんとかするしかない。
それならいっそ、本当に自分が完璧主義だと思うのなら、積極的にそれを貫こうとしてみたらどうだろうか。
今の自分がどれだけへたくそで、描いたものが見るに耐えなくても、上手くなるためには描くしかないのは確かなことだろう。
何もしない事は、完璧から一番遠いことである。そこをもっと、明確に認識すべきだ。
つまり何もしない人は完璧主義では無く、ただの現実逃避だ。そう思ったほうがいいのじゃないか。
そこそこのレベルで、まあまあだと満足しても別にかまわないのに、どうしてもそれでは嫌なのだったら、それはどうしようもないんじゃないか。
とりあえず、過去の失敗からわたしが学んだこと。
それは、一足飛びに満足レベルに到達できないこともある、というよりむしろそちらの方が大いに起こりうると認識し、いちいちがっかりしないということだ。
現実と目標とするレベルとの差異は、つぶさに厳密に見るべきだけれど、そこには余計な情動を持ち込まない。落ち込んでいる暇があるなら、前に進め。
ということを、今度落ち込んだ時に思い出せるように、このブログに書いておきました。
ちなみに
気に入らないこの絵は
BGMがわりに聞いていた、がくっぽいどのオリジナル曲のイメージ画像です。
がくっぽいどは、GACKTの声をサンプリングした、ボーカロイド。最新版が欲しい!!