ブログの毎日更新が途絶えてしまったけれど、めげずに過去日付で更新していく所存。こんにちは!永理です。
ていうか、そういうことをやると、もはや日付という情報に意味がないよね? 一日一記事更新できたかということのチェックのための日付ということにしかならないけども、まあ大まかな時期があってれば自分的にはOK。
ライター的セミナーレポートの背景心理
先日、大変わかりやすく魅力的なセミナーレポートがあって、書いた本人にさすがだと思った旨を伝えたところ、当人的には、それは「上手にまとめてレポートする」という能力を発揮して書いたに過ぎず、なんというか、そういう書き方をするのは、ときにストレスになったりすることもあるそうだ。
なるほどなーと。
本人の内的モチベーションによらず、一定水準以上の品質の文章で、読者が知りたいであろうことを上手にまとめるという力。それって、ライターとして必要な能力だよな、と。(その方は職業ライターではないけれども。)
先だってわたしが、さんざん抵抗していたブログ術的なものが指南するところの「相手が読みたいものを書け」というひとつの完成系がそういうものなのかもしれないと思った。
その方のブログはアクセスもあってアフィリエイト収入などもあるとのことだし、そこを目指せというのは、ある種ブログ術としては、役立つ指南だったのかもしれない。
しかし、気になるのは、実際にそれをやり遂げている本人が別にうれしくなさげだったこと。
段階的ブログ術の提案
結局、その方にとっても、その地点は、通過点ではあるかもしれないけれどゴールではない。わたしはそこを通過すらしていないけれども、やっぱりそこをまず目指すのは違うのかなーと改めて思ったりはした。
というのは、なんだかんだいって、多くの日本人にとって「自分より先に他人のことを考える」ことはよしとされている。そういう、ゆるやかな社会的圧力があると思う。
だから、あえてそうしろと言われなくても、もともと、少なくとも自分なりには他人のことを考えているし、他人の目もとても気にしている。そういう人が多い。
個性を抑圧する毒親に育てられたわたしのような人間にとっては、自分を殺せと強要されることに抵抗を覚えながらも、なかなかそこから脱する行動を取れない。
そういう人々が、自分らしく生きるためには、もっと他人の目を気にする傾向を強めようとするべきではない。逆にまず「自分」のことをしっかり考えて、他人はどうあれ、自分自身はどう思うか、どう感じるかを尊重するようにしたほうがいいと思う。
その部分ができていない人に、むりやり自分より他人のことを先に考えさせようとするのは、たとえるなら、幼稚園の子供に、おもちゃを友達に貸してあげろと強要するみたいなことに等しいのではないか。
まずは、本人が自分のおもちゃを所有し、それを楽しみ、堪能する経験を積むことが最初だろう。しかるのちに「ともだちと一緒に遊ぶのも楽しいよ」ということに納得し「人と分かち合う喜び」が自然とわきあがってきて、その発露として「貸してあげる」という行動に至るというプロセスを踏むことが健全な成長ではないだろうか。
それを抜きにして、「友達に貸すのがいいことだ!」と、最初からおもちゃをとりあげてしまうような。そんなのは、本人からすればおもちゃを搾取されているだけで、ともだちが楽しいとしても、自分は楽しくないだろう。
同様に、ブログ術のアドバイスにも段階があるのではないか。最終的に「自分だけがよければいい」という状態を目指すわけではないとしても、ゴールに至るには、まずは自分の思っていることや考えをはっきりさせよう、という地点からスタートしないとはじまらないのではと思う。
さもなければ、個性もなく当たり障りのないブログになってしまうだろう。あるいは、仮に人に評価されても、どこかこんなものは別に自分ではないというような空虚さが残るかもしれない。
結局、自分をないがしろにしたままだと、かりにプロレベルできれいに文章の体裁を整えられたとしても、他人の役にはたつけれども本人は喜べないという結果になってしまう気がするのだ。
つづく
で、最近発見したのだけれど、「自分」をないがしろにして、「他人」を先に考えるようなことばかりしていると、結果的にはむしろ逆に「他人」を認められず、他人を否定するようなことばかりしてしまうことになるメカニズムを発見した。
それはまた、書く元気があるときに書く
と思う。
多分。
ではまたー。