自分との対話、或いは自分自身の発掘作業記録としてのブログ

ご無沙汰しています。みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。永理です。

前回更新してから、なかなかブログを更新できなくなっていました。なんとか更新したいなーと、毎日思いながら過ごした日々でした。

更新していない間にもいろんなことがあって、「あ、これブログに書きたいなー」と、何度も思ったりはしたものの、そのまま日々が流れました。

もしかして、あとから思い出して書くかもしれませんが、このままかもしれません。

いろんな人と出会ったり、いろんなことを学んだり、自分の内面とむきあったりしていました。そうした日々のなかで、今まで培ってきた価値観がぐらぐら揺らいで、脳内が混乱しています。

個人のブログなどは、書くべきことがないのなら別に書かなくてもいい話だというのはわかっています。それでも、やっぱり何か書きたいのだと思います。

ただ、何が書きたいのか、どう書きたいのかを見失ってしまっている。フラストレーション。

赤ん坊ならば、何がフラストレーションの源なのかわからずとも、ただぎゃーっと泣けば、「お腹がすいたのかな」「おむつかな」「かまってほしいのかな」と、親が察して対処してくれるでしょう。

でも、残念ながら自分はもはや赤ん坊ではなく、ぎゃーっと泣くわけにもいかない。わたしはいったいどうしたらいいんだ!と虚空に叫び、だれかそれを察してくれと他人に要求するのは厚かましいというものでしょう。

自分でその役割を担わなくてはなりません。

しかたがないので、「おぎゃー」と泣く要領で、言葉を吐き出して、それを自分で見て「何がいいたいのかな?」と丁寧に拾い上げていくということをやっていきたい。

その実践の場としてのブログ。

この前の記事で、言いたいことは「書いてみて、初めて発見できる」といっていたのも同じことかと思います。同じところを螺旋のようにぐるぐる回っているんだな、わたしは。

個人的にやらずに、こうやって人が見ているかもしれないところでやるところが、「かまってちゃん」とも思いますが、読まない自由も読者は持っているわけだし、人目があることで多少なりとも、思考がまとまりやすくなったりするのではという期待をこめて書いていこうとしています。

よかったら、ゆるりとお付き合いくださいませ。

まあ。ありていに言って、どうでもいい話をしてもかまってもらいたいっていう欲望の発露だと思う。

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