ヘアーカットに失敗して、願う前からあきらめていては夢は決して叶わないと気がついた話

永理です。先週は、久しぶりに美容院に行きました。

先週末から今週にかけて、人と会う用事がいろいろと重なっており、数ヶ月手を入れていない髪がだらしなく伸びて、ぼさぼさになってきていたからです。

しかし、ここで想定外の事態に陥りました。

気に入らない髪型になってめちゃくちゃ悲しくて凹んだ

美容師さんは、十年以上ずっとお世話になっている気心のしれた方です。銀座の一等地にあるサロンのチーフをつとめるほどの腕で、いつもわたしの好きな感じに切ってくれていました。わたしの好みなどもすでに十分理解してもらっているつもりでした。

ただ今回は、「こんな感じでいかがですか」と仕上がりを確認されたときに、たぶん今までなら「ん、ちょっと違うかな。でも、まあいいかー」と思うくらいのところを、もう少し理想に近づきたいと欲が出て「耳の上あたりをもう少し切ってほしい」と伝えたのです。

そうしたら、気づいたときには全体的に切られていて、ちょうどいいと思っていた前髪や後ろの髪も、すごくすごく短くなっていました。

そのヘアスタイル自体がとても変ということはなく、それはそれとしてちゃんとしてはいるのですが、なりたかった髪型とは全然違うものでした。

仕上げのときによけいなことを言わず「これでいいです」と言えば、その時点のほうがまだよかったと思いました。髪を切って、ここまでがっかりすることになったのは、大人になって初めてでした。

分かり合えていると思っていたのは幻想だったのかもしれない

今までは良い感じだったのになんで今回だけ、とお互いに感じていたようでした。わたしが「もっとこうしたかった」と伝えたら、「伝わっていなかった」と言われました。

ショックでした。

どう言えば通じたのだろうかとそのあとずっと考えていました。

上手にオーダーするには、もう少しヘアスタイルについて勉強する必要があるのかもしれない。帰宅してから、インターネットで調べてみました。

そうしたら、わたしがやりたかった髪型にたいして「まさにこれだ」というぴったりの髪型の写真がありました。この写真を見せていればよかった!と思いました。

しかし、多少違うとしても、イラストや俳優の写真を見せてオーダーしていたよなとも思いました。今までは、芸能人などの写真を持って行ってもその通りにならないのは、素材が違うのだから仕方がないとあきらめていました。そのつど「そういうのは難しい」とか「変だ」といわれて、プロの言うことだからと受け入れてきたのです。

でも、「ここに実際に理想の髪型がありますけど?」というのを、一枚だけではなく検索画面にずらっと並ぶくらい見つけてしまいました。

これは、どうやらこの髪型自体が不可能とか、流行遅れだからやめたほうがいいとか、特殊な個人でないと無理というわけではないようだと思いました。もちろん個人の髪質などの条件で、多少の違いはでるでしょうが、素材がわたしでも、もうちょっとこれっぽくするくらいならできたのではないかと思えました。

そして、その写真の中の何枚かは、とある美容室のサンプルのものでした。

「だったら、この美容室に行けばよかったのかも!」

目から鱗が落ちるようでした。ずーっと同じ人に頼んでいたので、別の美容院に行くという選択肢が頭に浮かんでいませんでした。

しかし、そういえば一度だけ「こんなに長年やってもらっていて、好みは把握してもらってるはずだから」と思い、「わたしに似合う髪型をおまかせで」とオーダーしたことがあったのですが、じつは内心がっかりすれすれの結果でした。

ということは。

そもそも、わたしの要望や好みをわかってくれているはず、と思っていたのが勝手な思い込み、幻想だったのでしょう。美容師さんの得意なスタイル、美意識などともずれていたのかもしれません。そのことにすらずっと気がついていませんでした。

過去のトラウマの投影も悲しみを助長したかもしれない

こどものころ、祖母や母にはいつも意に反して短く髪を切られていました。美容師のように要望に沿う技術はないにせよ、長さくらいは調節できたのではないでしょうか。でも、わたしの「そんなに短くしないでほしい」という要望はいつも無視されていました。

母はたんに髪を切ると言う手間を省くため、頻度を下げる目的で短めに切っていたのかもしれません。祖母の場合は、ワカメちゃんのように極端に短いおかっぱを本当にかわいいと思っていたのでしょうか。母ですら「いつもお母さん(祖母)はなんであんなに短く切るのかと思っていた」というくらいでした。わたしとしてはいつも本当にいやで仕方がありませんでした。

祖母にしてみれば、孫をかわいがりたいという気持ちからしていたと思います。けれども、本人がものすごくいやがっているのはまるで意に介さず、大人の自己満足が優先というのは身勝手な愛情に見えました。

母は、祖母にこどもを預けて出かけるという都合上、多少いやでも文句はいえないと勝手にあきらめていたようです。母も守ってくれず、味方はだれもいない。ないがしろにされている感じがしていました。髪型が気に入らないということだけでなく、完全に無視されるということがひどく傷つくことだったと思います。

ところで、この「髪が短くなりすぎて凹んでいる」という出来事を軽くSNSでつぶやいたところ、「わたしも母親に短く切られていつも泣いていた」とコメントをもらったりしました。この時代ではべつにめずらしくもないことだったのかもしれません。その時はいやだなあと思っても、すぐに忘れて元気に遊ぶのがこどもらしいこどもでしょうか。

けれどもこれらを思い出してみると、わたしのこころの奥底に、まだ悲しみや悔しさ、不本意な感じが残っており、過去のトラウマが、こころの傷となって癒えていなかったのだなと思いました。

今回は「長さはこのくらい」と合意していたつもりだったところを、無断で大幅に短くされたことにより、自分が軽んじられたように感じてしまいました。無視されたという憤りや悲しみが湧き上がったのは、過去のトラウマが刺激されたからなのかもしれません。

とはいえ、たぶん、母も祖母も美容師さんも悪意などはなく、生きていればこの程度の不本意は頻発する瑣末事かもしれません。どう折り合いをつけて納得するのかは、わたしの心の問題なのでしょう。

なりたい自分になることに妥協していたと気づいた

今回の件で気づいたこともあります。いままでずっと「なりたい自分」になることを、妥協したり、そもそも「そうなりたい」と望むことすら、あらかじめあきらめていたんだなということです。

美容室でも、本当はなりたい髪型があるのに、「こんな要望を出したら変だと思われるのではないか」と気にしてなかなか言えなかったりしていました。

それで、ずっと同じ人に頼んで、ちょっとずつ自分を出してきて、今回その集大成としてやっと要望をストレートに出せるようになったのでした。

そうして出してみたところ、結局思い通りにはならなかったわけですが、今までのそもそも要望自体出せなかった、という地点からは一歩進めたのかなと思いました。

また、「ちょっとここが違う」と言ってみたことにより、かえって希望から離れる結果にはなったものの、もし何も言わず、今まで通り「まあ、これはこれでいいか」ということにしていたら、自分が妥協していたことにすら気がつかなかったと思います。

もちろん、要望を完全に伝えても、頭の形、髪質、毛量、その他の素材的な条件で希望通りの髪型にはならないかもしれません。でも、なりたい自分になるために、もう少しできることもあるんじゃないかという希望も見えました。

根本的に言って、なりたい自分になるためには、そもそも「どうなりたいか」を自分ではっきりと認識してそこに向かっていかなくてはなりません。結果的に思い通りにはできず、妥協せざるをえないとしても、目標設定の時点から、あらかじめ妥協したり遠慮したりしていては叶う願いも叶わなくなってしまうでしょう。

どうも、自分には夢を願う前から勝手に諦める傾向があるようです。それで、なんとなく納得いくようないかないような不本意な感じを自ら作り出して生きてきたように思いました。

しかし、本気で願って実現のために行動すれば、たとえその通りに叶わなくても納得がいくのではないでしょうか。

これからは、遠慮しないで「ほんとうに欲しいものは何か?」について、無意識に却下しないように生きていきたいと思いました。

4行でまとめ

事実:久しぶりに髪を切ったら、オーダーと全然違う髪型になった。とても悲しかった。
気づき:行きつけの美容院で好みを美容師にわかってもらっていると思っていたが幻想だったのかも。幼少期のトラウマが未解決だったことにも気がついた。
発見:今までは、「なりたい自分像」に妥協や遠慮があった。
宣言:これからはなりたい自分にまっすぐに向かっていく!