自分を大切にするということ

なんだか、心の中がもやっとしていた。胸が痛くて苦しかった。「ああ、これは心が傷ついているのだ」と思った。

何に傷ついていたのかについて思いをめぐらし、該当する事案に思い至る。まあ、それだけ見たら大した出来事ではなかった。それなのに、この胸の痛みはどうしたことだろう?

その事柄の本質を見ると、ようするにこういうことだ。嫌なことを嫌と言わず、自分の気持ちを無視してないがしろにしたのだった。

嫌悪の予兆、心のアラートを抑圧し、「ま、いっか」と、雑に流した。その後、しばらくたってから、「やっぱり、あれはけっこう嫌だったんだな」とじわじわ込み上げてきた。

仮にその場で「嫌だ」とか「やめて」と意思を表明しても、べつに悪く思われたりすることはなかったと思う。なのに、その場では他人によく思われたくて「まあいいや」と、無意識に妥協していた。

自分の本心を瞬時にスルーした。無視した。考えないようにした。どうやら、自分の気持ちをとっさに無視するという癖があるのだった。

これが他人への仕打ちだとしたらどうか。

ある人が嫌だと思っていることを、うすうすわかっていながら、その人の気持ちは無視して「いいよいいよー」と他の人のほうばかりを優先するという。それも毎回、ほとんど必ずそうする。

たとえ、「まあ、嫌と言っても、ものすごく嫌という程ではない」事柄ばかりだったとしても、常に思いは無視され、それどころかほとんど認識すらされないとしたらどうか。

その人の気持ちはいつも後回し。

これはけっこう酷い、傷つく仕打ちなのではないか。

しかし、わたしはそうやって、自分で自分を傷つけ、粗末にする行動パターンを繰り返してきたのだった。それどころか、今までそうやって自分を傷つけていたことに、気づいてすらいなかった。

今までは、むしろ自分は嫌だと思ったことはきちんと主張できる人間だと思っていた。嫌と「思う」前に、その思いが握りつぶされていたことには気づかなかった。自分の気持ちを無視することに慣れすぎていた。

じつは嫌なんだということは、落ち着いてゆっくり考えたら気づけるのかもしれない。けれども、いつもガン無視を決め込んでいるから、瞬時に反応できない。たまに「ちょっと嫌」程度ではなく「かなり嫌」という案件が混じっていても、本音の「嫌」がとっさに意識に届かないから、いつものように「いいよいいよー」と招き入れてしまう。

他人から粗末にされたら憤るくせに、じつは自分こそ自分を大切にできていなかった。こんなにも自分を粗末にしてきたのだということに驚いた。

わたしは最近、個人的な計画や、夢、目標、タスク管理といった場面で、好きなことを整理したり、優先順位をつけたりするのが下手なことが悩みだった。

しかし、それは結局、ふだん自分の気持ちを無視しているからだったんだなと腑に落ちた。

もっと自分の気持ちに敏感になりたい。それが自分を大切にする第一歩、ひいては夢を叶える第一歩だと思う。

何となれば、自分は何が嬉しいのか、何が嫌なのか、といった気持ちもわからずに、自分がどうなりたいのか、どうなったら嬉しいかという夢などが分かるはずもないからだ。