五月からボイストレーニングをはじめました、永理です。
まだ一回レッスンを受けただけなんですが、想像以上に毎日がうれしくて楽しいです。
歌が大好きなので、大好きなことをしていたらうれしいのは当たり前かもしれませんが、うれしさにも段階があるんだと気がついた話をします。
自分なんてだめなんだと思っていた頃
今でもまだ思っていますけれど、昔はもっと強烈に「自分なんてダメだ」って思っていました。
歌を歌うのは大好きだけれど、じゃあどうするの?というビジョンは何もなく。今思えば「ダメだ」と思いすぎてるからビジョンなんて生まれるはずもないんですけどね。
学生の頃は音楽サークルに入ったり、友達とカラオケにいったりできたけれども、就職したらそんな時間も元気も無くなってしまいました。
でも、のちに職場の場所が変わり、近くに某レコード会社が経営する音楽スクールがあったんですね。そこのボーカルコースのグループレッスンに通うことにしました。
グループレッスンだと、発声練習などが大部分でした、個人的に歌を歌って先生にアドバイスを貰うという部分はほんのちょっとだった。あとはレッスン日以外にあまり練習できなかったこともあり、ものすごくうまくなったというわけでもなかった。かな。
そして、半年に一回くらい、オーディションがあって合格した人のコンテストがあるのです。一応簡易的ながらちゃんとレコーディングもしてくれて写真もカメラマンがとって応募できるというのがちょっと楽しかったりはしたものの、オーディションには一次審査も通らず、コンテストに出られませんでした。
一応先生には「一次くらいは通ってもおかしくなかった」と言ってもらえました。自分でも、正直そう思っていたのでがっかり。
レコード会社にとっては、プロ養成という側面もあったと思うので、売り出すには年齢的に遅いからと落とされたかなーというふうに思いました。同じくらいの歌の実力なら若い方をとるだろうし。被害妄想かもしれませんが、お呼びでない感じかーとまだ自己否定に拍車がかかったものでした。
あるいは、たんに、若くてきれいで歌もうまくないとだめだ!と強く思っていたから、その思いに呼応する現実が作られただけなのかな? わからないけれど。
Macとボーカロイド
会社でプログラマをしていたときには、Windows用のソフトウェアを開発していたので、家のPCもWindowsでしたが、あるとき買い換えるタイミングでふと思い立って、Macにしたんですよね。
そうしたら、いろいろすごくよかった。自分のやりたい活動にはMacのほうが合っていた。
デフォルトで音楽ソフトがインストールされていて、それで簡単に歌を伴奏とmixして録音することなどができた。わくわくした。
でも、今まではそんなに録音して自分の歌を真剣に聞いたことなどなかったんですよね。で、聞いてみたら「うーん」てなった。
そんなとき、たまたまネットで見つけたボーカルトレーニングの講座がありました。音源を送って添削してもらうというものでした。
わたしはGACKTが好きなので、彼の歌を歌って送りました。あとは当時はやっていたボーカロイドの曲で難易度の高そうな奴などを。
でも、GACKTやボーカロイド曲は、まず楽曲として難しいし、音域も声に合ってないということも加わってよけいに難しくてひどいできでした。なので、先生からは「もっと歌いやすい歌を練習したら」と、当時はやっていた「一青窈」さんの曲などを薦められました。
うん。
だよね。
聞く人の立場からすると、高い声の女子が無理矢理GACKTの低音ボイスを出そうと声をひり出して、音程もあわない変な声で歌われても聞き苦しいとは思う。
GACKT本人が「僕の歌は難しいからね」「歌いこなせる人は滅多にいないよ」と自賛してるくらいだから、たぶんそうなんでしょう。
そんな無茶はせずに、キーが合っている、メロディも音程がとりやすい女性ボーカリストの歌を歌ったほうがいいという考えはわかります。そういう曲なら、習う前から自力で90点(カラオケの採点機能で)越えくらいはいけるので、それを100点に近づけるレッスンしましょうという。
聞く人のためを考えたら、それが一番「ききやすい歌」になるんでしょう。
わかるよ。
わかるけども。
たまにカラオケで2〜3回くらい歌うならいいが、同じ歌ばっかり毎日練習するんだとしたら、その曲が相当好きじゃないときつい。楽しくない。全然気分があがらない。
そして、その「それほど好きじゃない歌」が、すこしうまく歌えるようになっても、そんなに喜びはない。なかった。
好きじゃない歌を、お金を払ってまで一生懸命練習してちょっぴりうまくなりたいわけじゃない。と、じょじょに虚しくなり、フェードアウトしました。
そのときは、むかし習っていたピアノのレッスンも好きな曲ができないという点では同じだったので、そういうもんかと思い特に疑問に思わなかった。
下手でもいいから歌ってみようぜというチャレンジ
そのあと、facebookで友達になっていた人が参加していた、うたのプログラムにとても心をひかれて参加しました。
上手い下手ではなく、「伝える」とか「心を解放する」みたいなことがコンセプトだったと思います(よくわかってない)。
やったひとが、なんかすごい感動して泣いた!新しい自分に出会えた!みたいなことが書いてあったので、おおーー!!って思って。
一応自分で歌いたいモノとしては、こりずにGACKTやボーカロイド、アニメソングなども持って行きましたが、全スルーでした。www。そっか、やっぱりだめかーって。思って。
曲選びは、その人にあったものを選んでくれるということで、そこも期待ポイントだったのです。
先生の提案のなかから知っている歌を歌いました。
椎名林檎さんの昔の歌でした。
彼女がその楽曲を発表した時分にはとても好きで傾倒したアーティストでした。ただ、もはやそこまでの熱はなかった。また、当時の林檎の中でも自分が好きだった歌と先生のチョイスも違ってた。これがほんとうにわたしに「合っている」ものなんだろうか???と思った。
しかし今までの自分と同じことをしてもしょうがないし、今までの自分にはないことをしよう!というチャレンジのつもりだったので、インストラクションのほうに乗ってみました。
結果。
ほどよく楽しかった。
でも、せっかくのライブ発表会で、家の人に動画録音頼んでたのが全然とれてなくて悲しかったりとか。
期待値が大きすぎたのかもしれないけれど、自分を解放できたか?というあたりも、「多少、そう、かな」というくらいで、大号泣するほどの感動まではいけず、そういう仲間がうらやましかったです。
やっぱり、自己否定が強力すぎたんでしょうか。
いちおう、なにか自分の固い固い殻にすこーいひびくらいは入ったかな?という感じでした。
そして2018年5月
でね。人に否定されたり、自分でも「こんな歌は難しくて歌えないんだろう」と思いつつも、しつこく独りで歌い続けてたんですよね。やっぱり好きな歌を歌いたいじゃん。歌い続けて気づけば10年ほどもすぎていた。
そしたら。
10年前よりは、ちょっとはましになったよね。さすがに。
以前、演歌歌手は10年同じ歌を歌い続けると聞いて、「よくそんなに歌い続けられるなあ」と思っていました。でも、ぜんぜん自分でもふつーにやってたね。うける。
あと、「下手でもいい」と言われても、「いや、やっぱりうまくなりたいよ」という思いも強かった。
それで、五月から個人レッスンのボイストレーニングをはじめました。
すると初日に、「ボイストレーニングを通してどうなりたいですか?」と聞かれた。
それで、勇気を出して(?)
「聞きやすい、歌いやすい音域の歌よりも、現段階では難しい曲にチャレンジして、音域も広げたいし、技術も上げたい」というようなことを言ったら、先生が
「それはいいですね」
っていってくれたんですよね。
いいねって!
いいねって!!
いいねって!!!
なんかさあ。
あまりにも、あまりにも、今までの人生で
自分のやりたいことを、そのまま「いいね」って言ってもらえた経験がなさすぎて
あまりにも
なさすぎて
なんかいまもう
これを思い出して書いてるだけでも涙がでてくるくらいだよ。
そうなんだよね。
いままでは
自分でお金を払って、個人的にやっている趣味の習い事ですら
自分のやりたいこと、希望が通ったコトってなかったんだよなあって。
それが当たり前って思ってた!!!!!!!
歌を歌うこと自体が好きだったから、気がつかなかったけども。
でも。
ほんとうに、やりたい方向性をくんでもらって、そっちを応援してもらって、そっちに伸ばしていけるようにしてもらえるということは。
ぜんぜんちがうね。
ほんとうに。
ぜんぜんちがう。
よろこびが!
よろこびが!!
よろこびが!!!!!
そりゃーね。
わたしがどんなにがんばってもGACKTにはなれないし、ボーカロイドの超音波みたいな高音の声で歌われても、聞いて楽しくもないという人もいるはず。そんな金切り声を上げる練習をせず、もっと通常の音域で歌う練習をしてはというアドバイスは理解できる。
そう思いながらも。
あきらめられずに独り家でこつこつ歌い続けて、前出なかった音域が少しずつ歌えるようになったりすることに、ひそやかな喜びを見いだしていた。でも「だめなんだろう」という思いもぬぐえないままやっていた。それはとても苦しかったのだと今にして気づいた。
大好きなことを独りでやって、だれにも迷惑をかけていない(あ、家の人にはうるさいという迷惑かもしれないけど)のに、なんかつねに「だめだ」と思ってるという。これは本当につらい。
あとは、家の人にも「ボーカロイドの歌は好きじゃない」といやがられていたかな。
いわく「歌詞が変」「原子炉に飛び込みたいとかなんなの?(注:「炉心融解」という曲のことだろう)」とか。
でも、ボイトレでは、最初のレッスンのときに、先生に「音域が、ふつうに3オクターブ半くらいはあるんじゃないの?すごいね」ってほめてもらえたんだよ。
ボカロのおかげで音域広くなったと思う。
ボカロ黎明期に「めちゃくちゃ高音」と思った、初音ミクの「メルト」も、もはや「ふつうだな」ってかんじじゃないですか。他の曲に比べたら。
そして、ボイトレ初日では、あこがれの低音ボイスの出し方などを習って、それをその後練習している。
あきらかに前よりできるようになりつつあるんだよ!!
できるじゃん!!
じぶんが!
やりたいことが!
もっと、できるのかもしれない!!!
自分がなりたいものにもっと近づけるのかもしれない!!
わたしは、もっと、自分が本当になりたいものになりたがってもいいのかもしれない!!!!
そう感じたときの喜びと幸せというのが
ちょっと
今まで味わったことのない感覚でした。
喜びの源泉をせき止めていた
何が言いたいのかだんだん支離滅裂になりつつあるけど、心からながれでるままに全部かくよ。
ようするに、やりたいことがあって、それはまだうまくできないことで、でもできるようになりたいと思って取り組んでいることで
それにたいして、はたから「できるわけない」といわれ、傷つき、自分でも「できないかもしれない」と思いながら、「どうせできないだろう」と思いながら、それでもやり続けてきたのだけれど
これは
好きなことをやっていても
とても苦しい。
くるしかった。
それが「できるかも」と思っただけで
ものすごく楽になった。
でさ。
できるかどうかは誰がなんと言おうと、最終的にはやってみないとわからないことじゃないですか。
なのに、やる前から「どうせできないだろう」と、決めつける必要ある??
「できなそうだからやめる」という選択肢もある。
「できなそうなことをやらないで、できることのなかで技を磨け」という人生戦略もあるんだろう。
それは、わたしにとっては両方役に立ってないね。
だって。
だって。
だって。
どんなに「下手でも」「才能なさそうでも」ずっとずっとずっとやり続けているからな!!!
今発見したよ。
わたしには「やりつづける」という才能があるよ。
やり続けても、何にもならないかもしれないけれど!
それでもやめるという選択肢はない!
なかった!!
これからもないだろう!!
だったらさ。
どうせやるんだからさ。
人からなんと言われようと、自分だけでも「できる」と思って、信じてやれば良かった。
信じてないのにやるって、すごく苦しいから。
ほんとに。
こんなに苦しかったのによくがんばったねといいたい。
「できる」は思い込みかも知れないけど、「できない」だって思い込みだ。何の違いがあるだろうか?
今まで、自分がやりたいことを、そのまま、やりたい方向に沿って伸ばしてくれようとする人がいなかった。自分自身ですら、作為をもって方向をゆがめようとしていた。
楽しそうなことをして好きに生きているはずなのに、意味不明な苦しさがあったのはそういうわけだったんだなーと思った。
まじで泣ける。
こんなによろこびが大きいことであるならば、べつにそれをやっているというだけでもう十分じゃないか。
だれが「ダメだ」ということができようか。そんなの聞かなくて良かったんだ。