こんにちは! 永理です。
最近のわたしは、メンタル強化のためのワークをしたり、通称春コミと呼ばれる同人誌即売会にむけて、出品するマンガを描いたりしています。
やればできた経験
前倒しのマンガ執筆スケジュールから、いつものようにじわじわ遅れてきてはいたのですが、それでもどうにかこうにか作業していたところ、おどろいたことに一日分の作業が予定どおり進んだのです。
「うお!できたよ!」
「うそっ!」
「なんだ、やればできるじゃん」
軽くおどろいた。そして感動した。
しかし、ふと思った。
なんでちょっとできただけで、こんなにおどろいているんだ。わたし。
理不尽な思い込み
別にできたのはこれが初めてではない。きちんと数えていないけれど、今までの人生で少なくても10冊以上は同人誌を作っているから、過去に「できた」という実績はそれなりにある。
執筆スケジュールだって、過去の作業速度から逆算した現実的な見積もりに基づいて計画しているのだから、予定どおりに進んだからといって別段おどろくほどのことはないはず。ないはずなのだ。
なのに。
なんで、こんなに「できない」という前提で動いてたんだろう。
実際には何度もできてきたことなのに。
なんでこんなにずっと「できない」って思い込んできたんだろう。
意味がわからない。
できない前提から生み出されること
無為に「できない」と思っていることの何が問題かというと、無駄にエネルギーが漏れることだろう。
簡単にできるとわかっていることをやるのには何の心理抵抗もない。取り組むための気合も必要ない。けれど、「できないかも」「できなかったらどうしよう」と心配していると、それを乗り越えるために意志力が必要になる。
不安が大きいと無駄に意志力が使われるのである。最近の研究で、意志力は有限なリソースであるということが言われている。
つまり、できて不思議のないことにいちいち「どうしよう。どうしよう」とおろおろしていると、それだけでエネルギーが切れてしまうことになりかねない。
やりたいことなのになかなか取り組めないとか、やりたいことがやりたくないことに変わるメカニズムはここにあった?
やりたいことは告白と似ている
たとえば、好きな人に告白することを想定する。「断られたらどうしよう」という不安がゼロという人は少ないだろう。
あるいは、受験でも本命の学校ではその他の試験より緊張しやすいかもしれない。
「絶対うまくいきたい」「失敗したくない」という思いが強いほど、不安は大きくなる。心理的ハードルも高くなる。
つまり「やりたいこと」も、思い入れが強ければ強いほど、同様のメカニズムが働いて、行動へのハードルが上がる。
「好かれたい」「嫌われたくない」と思えば思うほど、好きな人の前で自然に振る舞えず、挙動不審になってうまくいかない。逆になんとも思っていない相手のほうが自然な態度で接することができて、むしろそちらからのほうが好かれやすくなったりすることもあるかもしれない。
うまくいかせたいときほど自然体の方がうまくいきやすい。よけいな気負いはないに越したことはない。
難しいことが価値があるという思い込み
もうひとつ思い当たるのは、「楽しいこと」「かんたんなこと」は価値が低く、「つらいこと」を乗り越えて「難しいこと」に果敢にチャレンジし、獲得したものこそが至高の価値!という信念があったこと。
「やりたいこと」というのは、自分にとって価値のあることだ。だから自分にとって「難しいこと」でなくてはならない。難しいことなのだから、つらいかもしれない、失敗するかもしれない。失敗したくない。つらいのもいやだ。どうしよう。
そんな風に勝手に、ものごとをややこしくして、難しくして、つらくして、ハードルをあげていただけだった気がする。
仮に本当に難しいことだったとしても、そうであればこそ余計に、むだに「どうしよう」とうだうだエネルギーを漏らさずに、やることそのものにリソースを割いたほうがいいに決まっている。
ようするに
下手な考え休むに似たり。否。それよりなお悪い。
無駄な考えに注いでいる時間、意志力のリソースを使うのみではすまない。不安をあおり、難易度を高いと見せかけて、心理的ハードルを上げる思考回路は、将来的にもリソースを空費し続ける。やめろ。やめてくれ!!
じゃあどうするのかっていうと。
アホやってたなあと思い知って、単に「次からやめよ」ということだけだ。
なんだ。今までこんなに苦労したり、苦しんできたのに、たったそれだけなんや。
って拍子抜けするけど。
ほんとにそれだけやんね。
無駄なエネルギーを漏らさなくてもできないかもしれないけど、それはそれ。
「できなかったらどうすんの!」って神経症的に攻め立て続ける心の中の母親よ。さようなら。
「さあ」「どうもしないよ」
とりあえず、まずは無駄をなくしていくとこからやろ。