数日にわたって「嫉妬」について考えてきた。
まだまだ、考えはつきないのだけど、いったん自分なりの結論を記しておきたい。
結論:「妬ましい」相手のことは、「見ないようにする」のではなく、逆によく見るべきだ。
どうも「人と比べて落ち込んでしまう」という場合、「ひとの事は見ないようにする」「気にしない」というアドバイスばかりが、散見するように感じる。
先日述べたとおり、たいして重要でない問題はそれでいいと思うが。(参照:「気にしない」「そういうもんだ」ですむ話ならそれでいいけど…。)
そうじゃない場合、大事な事の場合は逆に、「よく見る」ほうがいいと思う。
まず、うらやましいと思うのはどんなときか
極端な例をだすと、うさぎが自分より走るのが速いからといって、ねたんだり、落ち込んだりする人はたぶんいない。
「自分と違いすぎる」と、妬みの対象にならない。
また、自分が望んでいないことはうらやましくない。
だから大人になると妬むことが減る…
こどものときは、ともだちがやっていることを「自分でもできるかも」と思いやすい。積み上げてきた経験など、差がまだあまりないからだ。
その点、大人になると、経験がすでに蓄積されている。
少なくとも十年以上はハードに練習しなければピアニスト並みにピアノの演奏をすることはできないということを知れば、かんたんに「自分だってできるのに」とは思えなくなってくる。
あの人は自分とは違うから、と思うようになる。
それでも、自分にもできるかもと思えるのなら、ある意味それはいいことかもしれない
誰かが妬ましい場合には、「自分が望んでいる事」を実現している人がいて、「自分でもそうなれたかもしれない」と思っている、ということだ。
それは、むしろ「望んでいる事を実現するチャンスがある」と自分で感じているということかもしれない。
であれば、やはりその妬ましい相手をよく見るべきだ。
その人の何が羨ましいのかよく考えてみる
同窓会で、学生時代に自分より成績が悪かった友人が医者になっていてうらやましかったという人がいた。
それにひきかえ、自分は明日をも知れぬ派遣社員。重要な仕事もしておらずお金もないし、悔しい!とのことだった。
それを手に入れるために払っている犠牲を見る
しかし、医者になろうと思ったら、難しい医学部の入試に通らないといけない。
また、ふつうより長い6年間を大学で勉強し、さらに研修医として薄給で働き、医師免許の国家試験にも受かる必要がある。
自分はそれと同じだけの努力をしたのだろうか?
あるいは、おなじ努力をしてでも同じ結果を手に入れたかったのか?
よいことばかりではなくトータルで見る
社会的地位が高いとか、収入が高い仕事にも、相応に大変なことだってある。
ちやほやされているように見える芸能人だって、あることないことゴシップ記事を書かれたり、ストーカー被害にあったり、売れていれば売れているなりにプライバシーや睡眠時間がないとか、落ち目になればひどい扱いを受けたりとか、いろいろあるだろう。
安定しているように見える公務員だって、実はそれぞれいろいろあるらしい。
なにかを得ようとしたら、同時になにが付随してくるのかを知り、トータルで受け入れられるかも判断する必要がある。
妬む気持ちの源泉は「なりたい自分」
結局、他人の中に「こうなりたい自分」を見て、自分への不満を抱く、というのが妬みの構造だと思う。
だが、じっさい、その「なりたい自分」というのは、なにもかもが妬んでいる相手と同じではないはずだ。
「きちんと相手を見て、自分はなにを望んでいるのかをはっきりさせること」
自分への不満を解消するには、その不満自体が何なのかをはっきりさせるところからはじめるしかないと思う。
そして、「得たいものに不可避的に付随する一切合切を含めてそれを望むのか?」を考える。
答えがイエスなら、具体的に不満解消へのステップを考える。
その場合、ポイントは焦らないこと。不満を解消するとしても、たぶん今すぐというわけにはいかないかもしれない。ときに根気づよくとりくむ覚悟も必要になる。
そうまでしていらんわ、と思えれば「何もしない」というのでもかまわない。
それでも、単に嫉妬だけしている段階よりは前に進んでいるはずだと思う。