自分に自信を持つには〜自信とは何かについての考察

一般的に「自信がある」というと、「なにかの分野ですぐれていると自認していること」というように思われている気がします。簡単にいうと「俺スゲエエエエ」みたいな感覚。 しかし、謙虚を美徳とする日本の風土では、こういうパーソナリティ自体「すぐれている」という評価が得られにくい。しかるに、人よりすぐれていると見せるためには、自分ですぐれていると思ってはいけないみたいなパラドクス的なねじれた構造になる。 また「他者との比較における優位性」を自信の根拠とすると、上位の人しか自信が持てません。そして、どこまでを「勝ち」と認識するかの線引きも曖昧です。上には上がいます。 そして、人との相対的なランキングで、下位にランクインしたら、どうやって自信を持ったらいいのでしょう。自信とは無縁に卑屈に生きていかなければならないのでしょうか。そういう人も多いように思います。 日本人の自己評価や幸福感が世界的に高くないことは統計にあらわれています。

絶対的な自信

一方、そういう「相対的」な自信ではなくて、「相対」と対になる概念としての「絶対」的な自信について考えようということもよくいわれます。 「絶対的な自信がある」というと、「絶対」=「超orすごく」ととらえて、「めちゃくちゃ自信がある」「自信過剰」みたいなイメージを持つ人もいるかもしれませんが、ここではそういう言葉の使い方ではなくて、「絶対的」というのは、他者と比較しないという意味です。 具体的には、他の人よりどれだけ優れているかではなくて、例えば自分があたらしいことをできるようになったとか、自分なりに頑張ったとか。そういうところをよく見ましょうよという着眼点。

「人と比べない」

むかしから「人と比べない」みたいな教訓もよく耳にします。 しかし、実際には「比べない」ってむずかしくないですか。 「うちの子が世界一かわいい」みたいな親バカは絶対評価ですが、親「バカ」という言葉にあらわれているとおり、そういう風に客観的でなく絶対的に「最高」とすることを揶揄し、少なからず蔑視する含みもあるようにも見えます。 自分のこどもですら、よその子と比べてあれがダメだこれがダメだと、つい思ってしまう親も多いと思います。絶対的な親の愛というような言葉に反して、親がいちばん厳しい相対評価者だったりすることもある。 その観点では、むしろペットのほうが純粋に「うちの子世界一」と思ってもらえているのかもしれなかったり。

自分を信じる

「自信」という文字通り、「それは自分を信じるということだ」という見解もあり、それを最初に見た時は「なるほど」と思ったものです。 それまで「自信がある」というのは、なにか鼻持ちならない傲慢さ、妬まれる対象、「その程度で図々しい」という批難の的になる感じがして怖かった。 かといって、「自信がない」というのも、おどおどしていて卑屈で暗くて、それはそれで嫌なイメージがあって。 結局どっちでもダメというか。じゃあどうしたらいいんだよ! という八方塞がりの中。 そんなとき「自分を信じる」ことだよ、と言われて。 そうか!と思って。 でも、「なるほど」と思ってはいたけれど、じゃあどうやったら自分を信じられるのかはわからないままでした。

自分が信じられないとは

そして、今日。 なんで自分を信じていない、信じられないのかというと「間違っているかもしれないからだ」ということを、ふと思いました。 うん。だって、ふつうに考えて「間違っているかも」というものを「信じます」とは言えないよなと。 しかし、究極的にいうと「絶対正しい」ものなどはないわけで。そんな風に無謬性を、信じる根拠にしてしまうと、本質的に何も信じられなくなってしまうじゃないか! と気づいたのです。

自分を信じられないと他人も信じられない

自分を信じていないと、他人に「わたしを信じて」と言えなくなる。むしろ信じてもらっていると重荷に感じたり、居心地が悪い。信じていない自分を信じられていると、それだけで裏切っているような気分になるから。 そして自分を信じてもらうことを他人に期待しないと、自分も他人を信じなくなる。だって相手はわたしを信じていないのだから。そんな相手を、どうやって信じられるだろう。 自分すら信じられない世界は、誰も信じられない世界。 誰も信じられない世界には、真の友情や愛もない。 そして、それは自分で作り出した世界。

絶望的な世界からの出口

そんな絶望的な世界はいやだ! と強く思って。 じゃあ、どう脱出するのかと考えた時。鍵はやはり「自分を信じる」ことだと思いました。 「間違っていない」から信じるのではない。「間違っているかもしれなくても信じる」 それは「間違ってもいい」ということ。 ここまできて、はじめて「あー、『間違っても大丈夫』とか『自分にOKを出す』とか言われているのはそういうことか」という気がしました。 ほんとうは、間違ったらいやだけど、そんなことは当たり前だけれど、いやでもやるっていうか。「まあ、間違ってたら間違ってたでしょうがない」と諦めるというか。 もしかして「そんなの絶対許さん!」という人もいるかもしれないけど。間違ったら怒られるかもしれないけど。 間違っても大丈夫。失敗しても大丈夫。 大丈夫と思えなくても大丈夫。 それに「いい」も「悪い」もなくて。 たんに、事実として「失敗する」とか「間違う」可能性を「ゼロ」にすることは「絶対に」できないことなのだ、ということにすぎなくて。ああ、それが真理なのだなと思ったのでした。 だから「絶対失敗しないようにしよう」と思うことをやめる。 失敗する「かもしれない」。間違う「かもしれない」。それはそういうものだ。 それが当たり前。当たり前を当たり前と受け入れることなんじゃないのかと。 思ったんです。 今。

結局。

「自信」てなんだろうね。 ある種の諦観かもしれない。 誇ることも卑屈になることもなく。 結局「わたしは成功する」と「わたしは失敗する」は重なり合った状態で存在しており、箱を開けた時に初めて結果がわかる「シュレーディンガーの猫」的なものなのだろうか。 必要なのは箱を開ける勇気?