結局「親に愛されたかった人生だった」で終わりたくはない

こんばんは。永理です。

先日、KADOKAWAの電子書籍が割引になっていたので、pixivコミックアプリで読んで気になっていた「母がしんどい<母がしんどい> (中経☆コミックス)」を買いました。

毒親をテーマにした書籍が与えてくれる救い

母がしんどい<母がしんどい> (中経☆コミックス)「ああ」

こういう毒親っていっぱいいるんだなと。

むかしは毒親というような言葉はなかったけれど、20歳くらいの時にはじめてそうした概念を得た。心理学者の岸田秀や加藤諦三の本を読んで、「ああ、自分だけじゃなかった」「こういうことをつらい、いやだと思ってもいいんだ」と知ったことはほんの少しの救いになったので。

最近はこういうマンガもたくさん出て、わかりやすくなったと思う。問題点が広く知られるようになってきたのは喜ばしい。

毒親のもたらすもの〜魂の死

毒親の何が問題かというと、まずはつらい目にあわされるということ自体でこれを一時的被害とすると、それよりも精神を蝕むのは、「それをつらいと思うことが間違っている」「むしろありがたいと思え」という具合に、自分がどう感じる「べき」か、を他人(である親)が決めて、「その通りに感じなくてはならない」(さもなくば死)とばかりにおいつめられてしまうこと。

子育てというのは、その子が自分で生きられるようにすることだ。それは衣食住の身の回りの世話をして、物理的に肉体を生かすということだけではない。自分で生きるためには、考える力、感じる力を育てることが大事。毒親は、むしろそれを叩き潰す。ときに経済的、肉体的にケアをしてやっていると言う理由で、それらを踏みにじる自分の行為を正当化する。しかし、それは子育てというよりは「子殺し」。「魂の殺人」。

魂の殺人―親は子どもに何をしたか 魂の殺人―親は子どもに何をしたか

死してなお罰せられ続ける業

こういうことをいうと、「育ててくれた恩をなんだと思っている」という人が必ずいるし、自分の内面にもそういう考えが存在している。親は、苦労していろいろと金も手間もかけてくれたのだからと。こどもを持たない者にその苦労がわかるものかと。

親がよほど酷くない限りは、いや、ほんとうによほど酷くても、それでもまだ、こどものほうは「自分のほうが悪いのかもしれない」と思うものだし、世間もそういう風潮だろう。

母がしんどい」の帯にも「母のこと、大嫌いでもいいですか?」とある。どれだけひどい目にあわされようと、こどものほうから本気で親を嫌うことは難しい。

しかし、本来、自分の好き嫌いにだれかの許可がいりますか?

けれど

「親を嫌ってはいけない」「親を大事にしなくてはいけない」

もはや宗教のように、その教えは現代人の頭にこびりついて離れない。

知性によって現象を理解・解明すれば解決するのか否か。

大学生のころ通っていた本屋では加藤諦三の著作が書店の本棚の一角を占めていた。ざっとみて20冊程度はあったように思う。タイトルには、現代人が陥りがちな一般的な心理的問題点が掲示されており、その問題に悩んでいるひとなら思わず手に取ってしまうものだった。しかし、読み進めていくと、入り口はバラエティにとんでいたとしても、かならず根本的にひとつの原因に収束していった。すなわち、親(彼の場合は父親)。

それらの本の中で、なぜその苦しみが生まれるのかというメカニズムが詳細に、ときに感情的に記述されていたが、「じゃあどうしたらいいのか」という解決策については、あまり記述がなかった。当時は、著者自身もまだ問題を乗り越えてはいなかったからなのかもしれない。

早稲田の教授になるほどの知性の持ち主が、くりかえしくりかえし、手を変え品を変え、あらゆる表現で、あらゆる論理で、解明、解析してもまだ解消しきれないほどの抑圧が、数多くの本に表出されていた。

加藤氏の最近の著作はマイルドなので、父親への恨みも今ではだいぶ解消できたのだろうかと勝手に推測しているのだが、岸田先生はたしか80を超えても、まだ義母への恨みを持ちつづけていた。

業が深すぎる。

心の闇は作品として昇華しうるか?


ショッキングなタイトルの「さびしすぎてレズ風俗に行きましたレポ」も、根底は親子関係の問題がテーマだ。この作者もまだ、問題から抜け切れてはいないようで、引き続き苦しみを連載している。

結局、心理学者になって、心理のメカニズムを解析しても、漫画家になって作品に昇華しても、まだまだ解消しきれないということなのか。トラウマ。

OMG!!!

罪悪感と体調

最近、親子関係の自身の葛藤を、ブログでよくとりあげてきたけれども、その反動というか「親の悪口を書いてしまった」という罪悪感は半端なく襲ってくる。

心臓がぐいぐい締め付けられるような、胸の痛み、息苦しさを、ここ数日味わっていた。

物理的に胸が痛い。(まさか病気?)

人生のはじめの10〜20年に植え付けられた観念は、どれだけの時間を費やせば書き換えられるのだろうか。

嫌われる勇気?

最近流行り(?)のアドラー心理学では「トラウマなどない」と言っている。らしい。(アドラー心理学は昔からあるし、昔読んだ本にはそういうことが書いてあった記憶はないのだけれども、定かではない)。

嫌われる勇気」とは、「みなから好かれなければならない」「好かれることがいいこと」という価値観を捨てるということだろうと思うけれど、自分の場合はそんなにすっきりとはいかない。

そもそも「好かれるわけはない」と決めつけている。「(どうせ嫌われ者ですから)嫌われてもいいんです」という姿勢。一見嫌われる勇気を持っているように見える。

けれど、「嫌われてもいいです(だって現に嫌われているもんね)」というのは、「好かれることがいいこと」という価値観自体は保持しつつ、それを諦めたていで拗ねているだけ。たんなる強がりだろう。ねじれた心理。

嫌われる勇気」を持とうとするまえに、「どうせ嫌われてますから」とひねくれているのは、単に「好かれたい」思いを捨てるだけよりもめんどくさい感じがする。

あるいは、根本の「愛されたい」思いがなくなったら、ねじれた思いもまとめて根こそぎなくなったりするだろうか。

なんでもいい。この胸の痛み、苦しみをなんとかしたい。

とりあえず、過去分析をいったんやめて、未来に目を向けていきたい。

結局、「親から愛されたかった」「けれど愛されなかった(と感じている)」ことにたいして、「それでもまだ依然として愛されたい」という執着を捨てられるか否かということが問われているのかもしれない。