セルフセラピーとしての英語学習という手段について

最近一日が過ぎるのがとても早いです。
一日一日を大事に生きないとなあ、とつくづく思う今日この頃。

先日妹からいらっとくるメールが来たりして、なんでそういうことを言うんだろうとか、腹立ちついでに類似するメモリーが、つぎつぎに思い起こされたりして、それに対する自分の反論なんかも想起され

「あんたに、それを指図されるいわれはない」

みたいな台詞が浮かび、ふと。

あれー、ふつうわたしは「あんた」という二人称は使わないのに、なぜこの言い方がでてきたのかなあと、不思議に思い…

自分の話し言葉の起源について思いをはせる

そういえば父も母も「あんた」っていうなあと思いだしました。

生まれてからずっと住んでいる東京では、あまり他の人のことを「あんた」と言わない気がしますが

母方の故郷である新潟とか、父方の鹿児島では、ふつうに「あんた」と言っていた記憶があるので、地域性があるんでしょうか。おそらく。

そういえば、友人が、夫婦げんかの際、夫から「あんた」と言われて「あんたにあんた呼ばわりされる覚えはない!」と言い放ったと聞いたことも連動して思い出したりして。

うん、やっぱり東京では、あんまり「あんた」って言わないかもね。

ということから、何を言いたいのかというと、べつに「あんた」の使用地域分布とかそんな研究などでは一切なく。

言葉という概念の圧縮装置

たった一つの言葉でも、その言葉に、自らの経験、感情、などの歴史がぎゅーーっと詰まっているんだ、というコトなのです。

ひとつの言葉を思い浮かべるだけで、ときには、それに付随する感情までも蘇ったりして。だからこそ、言葉で人を傷つけることもできる。

ひとことひとことが、じつはかなりの圧縮された重量感を持つ武器なんだ、みたいに思ったわけです。

なぜ、わたしは英語を勉強するのか

長年、ずっと好きで英語の勉強をしてきたのですが、よく聞かれる質問で「なぜ英語を勉強するのか?」というのがあります。

べつに仕事で命じられたわけでもなく、留学するなどの必要性があるわけでもなく

「好きだから」「楽しいから」

としか言えなかったのですが、なぜ「楽しい」のかをもう少し掘り下げれば、達成する喜びといった一般的な理由以外に、じつはもっと切実な必要性があったのかもと思いました。

ポイントは「英語には何のリアルな感情もネガティブな経験も付随していない」ということです。

英語学習がもたらすセラピー効果について

わたしは、生育過程で、あまり感情的にいい思いをしていないので、必然的にその間に身につけた日本語の単語ひとつひとつにたいして、おぼえずよび起こされてしまう思い出が、非常につらいものになりがちです。

ふとしたはずみに嫌なことを思い出しやすく、鬱な気分に悩まされることが本当に多い。

とくに嫌なことが現実に起こったわけではないのに、むやみに憂鬱になるのはなぜかと考えてみたら、それは言葉によるものではなかったかと思うのです。

そして、英語を話しているときのほうが、全体的に気分が明るいのです。

やはり、英語は自分のいやな過去の体験に言語としてリンクしていないことに起因しているとしか思えない。

一昨年に骨折してほとんど外出できなくなって、気分が落ち込んでしかたがなかったときにも、その間にほぼ毎日受けていたオンライン英会話のレッスンが、おおいに心をなぐさめてくれました。

嫌なイメージの言葉を使わない、というだけでも、こんなに心が軽くなるのかと驚くほどでした。

アファメーションの力

そういえば「アファメーション」という、目標や夢を言語化して唱えることで、夢に近づくコーチング手法がありますね。

アファメーション

わたしも実行しようとしたけれど、なかなか上手く出来なかったりしていました。

その理由が、いまやっとわかりましたよ。

実際、なにか言葉を使ったとき、そのときのいやーな感じがリアルに思い出されては、辛い気分になったりするという日常を繰り返していたわたしは

ようするに日々アファメーションしてたんですよね。

いやなアファメーションをずーっと無意識でやっているわけだから、新しく、しかも不慣れなポジティブな内容でアファメーションをやろうとしても、アファメーションが相互に矛盾しているし、そりゃ弱い方が負けるよねって。

外観的には、とくにひどい幼年時代を送ったとは見えないように思いますが、感情的には、はじめて実家を出るまでの長きにわたり、そうとうひどい状態だったと思います。

それらすべての出来事とそれにまつわる感情すべてが日本語で処理されているわけで、悪いことのほうが自然と思い出されてしまうのを止めるのは相当困難です。

汚染された言語を除染する方法論としての英語学習

つまり、わたしの日本語は、わたし自身の黒歴史に汚染されている、といってさしつかえなかろうと思うのです。

それを、どうすればよいかというと、あたらしいよい体験に、あらたにひとつひとつの言葉をリンクさせていくという地道な方法しか、さしあたっては思いつかないわけなのですが

もしかして、全体的なバランスとして、白が黒に打ち勝てば、すべて白にひっくり返るみたいなことも起こりえるか? とかいう想像をしてみたり。

他には、情報のインプットは、汚染されていない英語で、なるべく行うようにしたら、おそらくいい感じではないかと期待するのです。

もっとも、英語では日本語のように早く読めないというのが最大の難点。

結論:わたしの英語学習の目的と目標

そんなわけで、わたしの英語学習のゴールは「英語でインプットし、英語で考え、英語でアウトプットできるようになること」

それによって得たいものの大部分は、じつはセルフセラピーだったのかもしれません。

なんで英語を学ぶことが自分を癒やすことにつながるのか説明するには、わたしの英語力はまだ足りないですね。日本語でも十分に説明できているのか自信がないです。

そうか…。それなら、ブログを多言語化したりして…、英語でもブログを書いたらいいんじゃないかなとか、あたらしい夢を見たりしました。

うん…そのうちできたらいいよね。

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所感

思えば成人するまでに傷ついた心を癒やすためだけに、成人後の人生のほとんどのエネルギーを使ってきた気がします。

病気の人は、まず病気を治すことが先決なのだとは思いますが

もうちょっとね。人の役に立てる自分でありたい。

そのためには、まずデトックスからでしょうか。

心のデトックスには英語学習。

身体のデトックスにはホットヨガ。

という方法でしばらくやっていこうと思います。