「人と比べない」とかよく言われるけど、そんなのそもそも無理ゲーじゃないかと思った話

先日、英会話のトピックでエンヴィー(Envy)というのがキーワードになっていて

それとシンクロしてるのか、身の回りで起きる出来事にも、このenvy、「ねたみ」が鍵になっていることがあったりはしたので

今日はそのことについて考えてみたよ。

エンヴィーという七つの大罪が一(いち)。かくも御しがたき感情よ。

さて、ねたむ、うらやむという意味のエンヴィー。キリスト教的には、七つの大罪の一つといわれている、らしい。

だれか他の人をみて「いいなあ」「うらやましいなあ」と思った事がない人はいないと思うんだけど。

たんに「いいなあ」って思うだけなら、別にいいよね?

でも、「ねたむ」と言う語を辞書で調べると、「うらやましく思って相手を憎む」とあるので。この憎むというところが問題なんだろう。

そういえば昔の人は「美人薄命」とか言っていたけれど。

美人は異性からの好意を得やすい反面、美貌をねたまれたり、好意をかえせない相手から恨まれたり、とかく憎しみも多く得やすく。

そうしたことが短命につながる、らしい。憎しみってこわい。

もっとも、「人を呪わば、穴ふたつ」とも言われるとおり、相手を憎むと、憎んでいる当人の心も同時に蝕まれる。憎んでいる人自身も苦しいわけだし。

人を憎むのはできればやめたいよね。

で、そのためには…

人と比べない。気にしない、などとよく言われるけれど…

他人を見ずに自分だけを見る、と言っていた人がいるんだけど、それは無理でしょう。

たとえば鏡を見なければ自分が今どうなっているのかはよくわからないじゃない。

他人というのは、自分自身の「鏡のようなもの」なんだよ。

だって、自分はどんな人間か? ということを、説明しようとしたらどうなるか。

たとえば、日本人が地元の中学校にあがって自己紹介するとき「わたしは日本人です」と言わないと思う。まわりのみんなと同じだから。

でも、アメリカの中学校に転校した時には、たぶん「日本から来ました」と言うかもしれない。

何が言いたいかって言うと、つまり「周りの人と何が違うか」という情報のあつまりが「自分」だっていうことなんだよ。

自分が何者かを知るためには、他の人をものさしにしないと無理ってこと。

自我は、自分以外のものによってしか定義できない。みたいなことを苫米地英人博士も言ってた気がするよ。

はげしく同意。

本質的に、人と比べないで自分を認識する事は不可能

でも、比べる事が悪いんじゃない。憎む事がいけないんだ…

ようするに、そういうことじゃない?

比べなければ「すごいな」と思う事もないわけで。それはつまらない。

わたしはソチオリンピックをほとんど見ていなかったけど、みんながオリンピックを見て感動するのはなぜ?

自分にとって当たり前の事、自分でもできそうなことだったら「すごい」とは思わないし、感動しないじゃない?

だからフィギュアスケートみたいに誰が見てもわかるすごいものに比べて、なにがすごいのかがちょっとわかりにくいカーリングがいまいち感動しないのは、そういうことかなと思うんですが(笑。

さておき。

かといって、真央ちゃんの素晴らしいフィギュアスケートを見て嫉妬に狂うひとはあまりいないと思う。

ということは、自分とくらべて「この人すごい!」と思っても、別に憎らしいと思わないことだっていっぱいあるわけで。

他人と比べる=嫉妬して憎む

ではないのであり。それは別の事。

「嫉妬という大罪を犯すことを免れる」ための秘策は、べつに「他人と比べない」ことではない。

そもそも、それは不可能。

と。わたしは思っている、という話。

以上。今日はここまで。

じゃあ、どうすりゃいいのよっていうのは、長くなったので今回はこれで。

一言でいうと、解決するには「とことん合理的になる」ということしかないと思っているのですが。

つづきは多分。明日。

とりあえず

「人と比べてはいけない」なんて、そもそもな無理ゲーを自分に課したら、必然的に失敗するしかないので、そのことによってさらに落ち込むというのは無駄ですよ(引用元:わたし)

と言いたい。

origin_4581799568photo credit: >Timo< via photopin cc