「理由なく好き」なことを大切にしてみると自分が見えるかもしれない

お正月も三日になりました。わたしは家でまったり過ごしてますが、みなさんお元気ですか〜。

今年2014年のマイテーマは「思い込みを外す」ということですが、そういえば…

ブログにおける二人称のあるべき姿って?

どこかで読んだブログのノウハウで、ブログでは「みなさん」と呼びかけてはいけないというのがありました。

他人行儀な感じがするからだって。「あなた」と言った方がいいらしい。

でも、日本語ってあんまりYouを主語にしない言語ですよね。人に呼びかけるときは通常は名前で呼ぶし、知らない人によびかけるとしたら「あの」とか「すいません」とか言うかな、わたしは。

つまり自分の日常語彙としても、あまり「あなた」という言葉は使わない。なので、ブログでも使おうとすると、とても違和感がある。「みなさん」のほうがしっくりする。

というわけで。「みなさん」と言っても、とりあえずいいんじゃないかな。いいことにしよう。

好きに生きているわりにそうすることに罪悪感を覚える罠

そんなの、いちいち言わないで好きにすればいいじゃん!という種類のことだと思うけれども。

なんというか、本に書いてあることや、人から言われたことなど、言うことを聞かないと悪いことをしてるような気がして不安になることがよくあるのです。

ありませんか? わたしだけかな。そうかもしれない。

それは、子供の頃から、親を中心とした大人に「こうしろ」ときつく命令されて、納得いかないことをやらされてる不満感まんまんで生きるのが常だったからだと思う。

とにかく、権威者の言うとおりにしないといけない、というルールで、逆らうことに罪悪感を持たせるように仕組まれていたようなそんな印象。

誰かの言いなりになりたい自分〜自由からの逃走〜

日本の社会は、たとえば会社では上司の言うことを聞いて、とか人の言うことを聞いていればどうにかなる場面が多い。

本屋に行けば、いやというほどあらゆるノウハウ本が出ているので「こうしろ」「こうすべき」という情報があふれているわけで。

そういえば最近。わたしは比較的よく本を読むので、自分は読書家なのかと思っていたのだけど、なんかちょっと誤解だったかな、みたいな気がしてきた。

本を読んでいることは事実ではあるけれど、圧倒的にノウハウ本ばかりなので。もちろん、ノウハウ本が悪いわけではないのだけれど。わたしの場合、そういう本を読むのは、誰かに「どうしたらいいか」という答えを教えてほしいという動機からだったと気がついた。

自分で決断しないといけないことを投げていたんだなあと。それはよくない。

昔、親や大人に「こうしろ」と押しつけられていやだったくせに、いざ何も押しつけられなくなったら、行動の指針がないことに不安になり、それに変わる権威者やルールを探しては、勝手に反発したり、勝手にルールに縛られて動けなくなったりしてて。

ばかみたい。滑稽でした。

自分の人生のレシピを作る

ノウハウ本は、あくまで参考にすぎず。自分の人生、どうすればいいのか、どうやったら自分は幸せなのか、自分で決めるしかないんだよね。

なんかすっごい当たり前のことしか言ってなくてすいません。

こんなの、思春期の人の言う言葉だと思うんだ。いい年して恥ずかしいわ。

ともあれ、そんなふうに自分の人生のルール、レシピは自分で作っていくしかないんだよ。

それを仮に誰かが聞いてくれて、参考になったらそれはうれしいことだけど。

わたしのルールやレシピは、他の人の人生に当てはまらないかもしれないし、人それぞれだから。

なので、ほかのもっと偉い人やお金持ちや成功者のお言葉だったとしても。自分にあてはめて、その通り自分がやって成し遂げても、必ずしも自分がハッピーとは限らないわけなので。

まあ。思春期を過ぎても、これからの人生について模索してもいいんじゃないか。

いいことにする(笑。

そのためのこのブログですよ。

今日のハッピーレシピ

さて、そんなわたしが今思ったのは、何のためかよくわからないが、何となくついやってしまうことや、やりたくて続いていること、わたしにとっては英会話などがそれにあたるわけだけど。

よく「何のために英会話をやってるのか」と聞かれて、そのたびごとに、それらしいことを言ってみたりはしたけど、本当はね。特に理由はなどはないんだと思う。ただやりたくてやってるだけ。

でも、意外と人生における幸せってそういうことが大事なんじゃないかと思ったりする。好きなものは好き。ただ好きなだけ。

そういうふうにシンプルに考えてみれば、すーっと進める気がした。

今日の自分的幸せのレシピは

理由なく好きなことを大事にしてみる

です。

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